心配は先生の担当
現在、京都コムニタスでは、大学にインタビューをさせてもらっています。もうかなりの数になりました。その際、よく京都コムニタスという名前を間違われたり(コムニスタ?コムタニスタ?コムタ??など)、どういう意味ですか、という質問もあわせていただきます。私としてはちょっとうれしい質問です。そうやって興味を持っていただくことがまず大切なことですし、少しでも私たちの理念に共感していただけるならば自分たちの存在証明にもなるような気持ちになれます。私は名前を大切だと考えています。名前に理念を乗せて、その理念に沿って塾が運営されているということを、生徒の方々が考えてくれるまで、体現できるように心がけています。
「コムニタス」については、これまで何度か書いているのですが、法人化以来、社名も京都コムニタスとコムニタス総合研究所としましたので、もはや私たちとコムニタスは切り離せない関係です。最初、どういう思いでこれをつけたかについてはあまり触れていないようですので、あらためて書きます。
私が京都コムニタスを立ち上げる時にどんな名前にするかについて、かなり悩みました。アドバイスをくれた人は総じて「わかりやすい名前」をつけるように言ってくれました。確かに教育産業では、わかりやすい名前をつけることが鉄則とされています。○○進学塾ならすぐにわかります。しかし、大学院受験や大学編入受験を専門に扱う予備校はほとんどなく、いわゆるわかりやすい名前はかえって理解を得られないという結論に達しました。じゃあどんな名前がいいのか、という話になるのですが、他の予備校の老舗の名前をパクるという下品なことをするわけにもいかず、かなり考えました。
一つの結論として、一見、わかりにくかったとしても、中身が伴っていれば、自然に覚えてもらえ、一般に定着するはず、という考えに至りました。当時よく言っていたのは、神戸の「ルミナリエ」です。 意味はわかりませんが、その文字を見たり、響きを聞くだけでイメージが湧きます。それこそが長期的に見て一番重要なことと考えました。ただし、それには私自身の考え方や理念と最もマッチする言葉にしなければなりません。ですから、必然的に予備校っぽい名称はなくなりました。さらに「京都」という地名にもこだわりました。中には東京に進出しないといけないから、京都とつけない方がいいと、アドバイスをくれた人もいましたが、私は京都の地に育ててもらったという思いが強かったので、地域密着型にもこだわりました。あとは理念を具現化することで、それにあてはまる概念を見付けるだけになりましたが、これに時間がかかりました。
コムニタスの名前の由来というコラムでも書きましたが、「コムニタス」とは要はまだ制度が固定化されていない集団を指しています。仏教は、ブッダが悟りを得て、その境地を他者に伝えることを決意してから、集団ができました。これをサンガといいます。ある先生の言葉を借りれば、6人のメンズクラブだったところから始まりました。ブッダがトップダウン的に他の5人を支配してやろうと思った形跡はありませんし、仏教教団を拡大して、一大勢力になってやろうとした形跡もありません。しかし、時とともに教団は大きくなります。仏教発生後1000年の時を経て、この日本にやってくるのですが、当然空輸されたはずはありませんから、自然の広がりの中の終着駅だったのです。
おそらく、想像ですが、発足当初は、確たるルールを設定する必要もなく、気心の知れた者同士が、理想を語り合い、争いもなく、非常に居心地のよい集団だったと思います。この状態がコムニタスです。外から見て、居心地がよさそうなら他の人もその環境を求め、中に入ることを希望するようになります。しかし、人が増え、大所帯になると、徐々に統制を取らねばならなくなってきます。そうして自分達を拘束するルールを作っていきます。仏教の場合、このルールブックが「戒律」と呼ばれているものになります。正確には「律蔵」といいます。このルールは少ない方が望ましいです。なぜなら多いということは、それだけ良からぬことをしたものがいたということを意味するからです。仏教では250程度のルールです。コムニタスも自己保身のルールを作りすぎて、誰かが誰かを罰するということが極力ないようにします。今の日本の国や自治体は、政治禍や役人が自分を守るためにルールを作ったり、変えたりします。日本人がオリンピックで金メダルを取ると、ルールが変わるのと似ています。これらはコムニタスとは程遠く、人を癒したり、守ったりしなくなっています。国民や市民は、「どこまでも国や自治体に頼らないと損」「自分の生活が苦しいのは政治のせい」。一方で政治禍や役人は自己保身のためだけに行政を行い、先を考えずばらまきをして市民の目眩ましをすることに執心します。こうなるとコムニタスどころか末期症状で、崩壊の一途をたどるでしょう。京都コムニタスはそうならない集団であることを願って名付けました。
このコムニタス理論を提唱したのはヴィクターターナーです。『儀礼の過程』 ヴィクター・W. ターナー (著) 冨倉 光雄 (翻訳)が元ネタ です。ターナーは文化人類学者ですが、その理論は、様々な分野に引用されており、仏教学でも引用されるくらいです。どんな組織でも、最初は、それほどルールは多くはありません。誰かが誰かを支配するために組織を作るところからスタート、ということはあまりありません。ターナーはファン・ヘネップの通過儀礼論を踏まえ、通過儀礼を受けるものは、社会からの分離、分離された境界の時期、社会構造への再統合という三段階を前提とします。
ターナーは、リミナリティ(境界性 liminality)にある人びとの「あいまいで不確定な属性」を指摘しました。境界にある存在は、それまでの社会的属性をはぎとられ、白紙状態にあります。その人々は指導者の権威に服従し、懲罰をも受け入れつつも、彼ら同士の間では序列や身分識別意識が消え、仲間意識と平等主義が共有されます。こうして生じる未組織の共同体を、ターナーは「コムニタス」(communitas)と名づけました。このコムニタスの対立概念が「構造」です。しかし、コムニタス自体が構造を再活性化することも指摘されています。つまり、単に世を儚んだり、現実から目を背けて、理想だけを語る集団ではなく、また、社会から隔絶した集団でもなく、コムニタスから、新しい発想や、あらたな構造が生まれることも視野に入っています。
これからもこれを初心とし、努力を続けていく所存です。
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