祈りとは

井上博文

井上博文

テーマ:雑感

昨日、図らずも二つの記事を目にしました。
東大発「ヘイト書き込み」への心からのお詫び
ローマ教皇 長崎 広島でのスピーチ
対比すること自体そもそもおかしいのおかもしれませんが、「保守」と名乗る、あるいは周囲がそう評価する人々は、これらを見てどう思うのかについては少しだけ興味があります。
遠からず、天皇の皇統と仏教について、講演を依頼されていますので、ここのところ天皇について、いろいろ本や論文を見ていましたが、天皇は「祈り」の王として、この国の歴史や文化の象徴を担ってきました。言い方を変えると、天皇を中心とした歴史書に描かれ、紡がれてきたこの国の歴史や文化は、祈りを下支えとして歩んできたとも言えます。そこに一緒に歩んできたのが仏教です。だからこの国は天皇家の歴史を持った仏教国です。つまり、特に奈良、平城京以降、南都六宗と言われた仏教、平安京の比叡山天台宗、高野山真言宗のあわせて八宗は、仏教としてこの国の平和と安寧(その他様々)を祈り続けてきた1300年と言えます。保守っぽい人々は、まずこの国の歴史を勉強する必要があります。上の①の記事でお詫びの対象になった東大特任准教授の「中国人を採用しない」という発言について、この記事を書いた先生は、無教養と断じておられます。その通りだと思います。勉強ができること、仕事ができることと、教養があるということは必ずしも比例しません。勉強ができる人が教養のある人とは限らないということです。しかし、本当の意味で仕事のできる人は、たいていの場合教養もありますし、それを求める人が大半です。少なくとも本来不必要で、少なからぬ人に不快感を与える無教養な発言を自信満々にSNSにあげる自らの行為に対して省みることが全くないことは、謝罪がなく居直ること以上に衝撃的です。
私の師匠は、今「自省利他」という言葉を発信しています。5月にお寺に行かせていただいた時も、これを発信するように仰せつかりました(ほとんどできていませんが)が、今ほどこの言葉が重要だと思ったことはありませんでした。まさに、自分を省みず、他を利するとをしない人の発言です。
一方で、比べるのも失礼ですが、ローマ教皇の広島、長崎でのスピーチです。同じ人間なのに、こんなに違うのかと思わされるものです。ここには、黙祷も含めて、祈りが込められています。よく願いと祈りの違いを聞かれるのですが、願いは、「かなうこと」を前提にしたものです。祈りは「人知の及ばないものを畏れ、鎮めたり、なだめたりすることを、人間、特に専門家がささげる行為」と言って良いでしょう。その違いは大きいと思います。
この国は、祈りに支えられてきたということを、あらためてローマ教皇に教えていただくというのも皮肉な話ですが、①の記事の特任准教授のような人がなぜ評価されるのか、ということを考えてみる必要が生じてきたのではないかと思います。



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井上博文
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井上博文(塾講師)

株式会社コムニタス

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