メディアの顔
ごく最近受けた質問です。よく大学で「すーぱーぐろーばる」などと聞くのですが、あれは何ですかという主旨でした。正直なところ、私も意味がわかりません。現在の教育行政は理解不能な点だらけで、どこをどう切り取って評価すれば良いのかもわからず、どうしようもない状態です。東大が日本のランキング1位から落ちたことが話題になっていますが、もはやそういうレベルの話ではなくなっています。
私はグローバルを語る時、必ず仏教の歴史を語ります。それを通して、グローバルとは「相手の言葉で、自分や自分を育てた背後の文化を語り、伝え、理解してもらい、受け入れてもらうこと」と言っています。仏教は、故国インドを出て以来、そうやって「受け入れてもらった」歴史を積み重ねて、6世紀に地図上の東端の日本に届き、さらにこの国の中でも、各地域に受け入れてもらいます。深く受け入れられると、あたかも元々あったかのような扱いを受けて、しらないうちに(客観的には元々あったであろう)その地域の文化と仏教が融合しているのです。インド発祥のものが、気づかぬうちに元々日本にあったかのごとく、溶け込むことです。この国はそうした文化をもってきました。明治の廃仏毀釈は日本人のそうした気質を捨て去ったあまりにも愚かな国家になりきれていない国の国家政策でした。この時から日本はグローバルの理解ができなくなっているのかもしれないと、最近本気で思っています。明治時代を「素晴らしい時代」と考える政治家や官僚が司るグローバルはどこか(というかいたる所で)間が抜けたものであり、実は、大学の先生にも生徒にもリアリティのあるものとして捉えられていないということを「裸の王様たち」は気づいていないのでしょう。
先日引退表明したイチロー選手の「自らが外国人になったこと」は、若い人は是非見ていただきたいと思います。あの引退会見は、私たちに重要なメッセージを届けてくれています。でも、何もすべての人がイチロー選手のように海外に出て、力で相手方の受け入れを獲得する必要はありません。グローバル体験は小さなことからの積み重ねで徐々に世界を広げていくことから始めますので、自国にいながらでもグローバルを知ることはできます。
以下は私のつたないグローバル体験です。
私が大学に入った時、それまでのろくでもない生活が下地になっていることもあって、京都に出てきたことも含めて、知らない世界に来たわけですが、「何と素晴らしいところにきたのか」「ここに来なかったら、ろくでもない人間になってたかも」などと、日々出会うこと、人、講義で習うことに感動することの繰り返しでした。この感動と楽しさが私なりに充実した学生生活を体感し、いわゆる「結果」とは無縁の時間を過ごしたことを成功体験と捉えていました。その感動をもっと得たい、4年間で自分ではいろいろあって文字通り命がけで勉強しましたが、それまでの下積みのなさからか、もっと本気で専門分野に取り組みたい、プロの研究者が集まる学会を見たい、そんな気持ちから大学院に行きました。実際の学会は、先輩や先生がフラットな状態で発表します。学部では見たことも聞いたこともない言葉が次々と飛び交います。学部ではそこそこ勉強ができたつもりでしたので、よくわからない自信を持っていましたが、実は全く通用しないことが判明し、さらに全く異世界に足を踏み入れたように感じ、不安も覚えました。こんな世界でやっていけるのか?そもそも何でおれはこんなところに来たのか、こんな自問自答をしながら、その世界につかっていくと、徐々に慣れてきます。そして自分もそういうある種特殊な能力を身につけていきたいと思うようになります。そうすると、今度は、学会には、学術書の著者である、(業界的に)有名な先生がたくさんいることに気づきます。視野が広がったのかもしれません。学部から通算して、数え切れないくらいの学会誌の論文を入手して、毎日読んでいましたが、著者の人間像に触れる機会など想像もしていませんでした。最初は懇親会に出ても、ご飯を食べてばかりで、同じ大学の人としか話さず、(おそらく間違った意味で)お腹いっぱいになって帰っていました。でも何か違うと感じるようになり、名刺さえもっていない自分に気づきます。自己紹介をすることさえ知らなかったのです。自分が何者で、何を学んでいて、どんな疑問を持っているのかを語る術も、伝えようとする意思さえ持ち合わせていなかったのです。要するにコミュニケーションを取ることを知らなかったのです。ともすれば、私たちは、自分の世界の中だけに埋没して、その外を見ようとしなくなります。それでいて、外の価値観、自分の知らない価値観を否定さえしていまいます。これではいかんと考えました。そして、まずは名刺を作り、学会に行き、見たい先生の発表で質問をしようと思うのですが、その勇気が出ず、懇親会まで待つこととし、懇親会で、さらに勇気を出してその先生に話しかけてみました。そうすると、その先生は、私の発表を見てくれていたらしく、「あなたの発表見ましたよ」と全く予想外の対応。それ(だけ)で頭が真っ白になり、何を言うかが消え去ってしまいました。その先生も察してくださったのか、いろいろな論文を紹介してくださり、さらに別の先生のところに連れて行って、紹介までしていただきました。その奇特な先生は、個人名を出して恐縮ですが、花園大学の佐々木閑先生でした。この先生はあまり社交辞令のことは言わず、これから学者として生きるにはどうすればいいのかを教えていただきましたし、研究会も紹介していただきました。留学は早くしろと言われましたが、実現できませんでした(すみません)。海外からの留学生もたくさん紹介してくだったこともあります。その意味でとてもお世話になりました。その他、様々な先生方と知り合うことで、他大学のことを知り、自分と近接領域の分野、あるいは全く縁のなかった分野のことも知るようになっていきます。
留学生と知り合ったことは、今でも財産になっています。皆さん、今はプロフェッサーとしてえらくなっていますが、当時は同じ院生として、いろいろ海外情報を教えていただきました。多分海外では有名な仏教学者の名前がたくさん出てきましたが、この先生とこの先生は仲が良いとか、悪いとか言われても、そもそも知らんわ、みたいなこともたくさんありました。もちろん、私が知らないことはシークレットです。また人の名前を発音するときは、英語の正確な発音で言ってくれますので、さっぱり誰のことかわかりません。私たちは英語の綴りをカタカナで理解しているのだと気づかされました。人の名前さえ正確にしらないのか・・ちょっとした衝撃でした。イギリス人の独特の言い回しは最後まで慣れることはありませんでしたが、ここで気づいたのは、イギリス人と話すとき、お互いほぼ日本語でした。私が最初たどたどしい英語で話しかけると、(多分わざと)日本語で答えてくれるのです。そこに見え隠れする多くの含みに、少しいらっとするのですが、今思えば、それも文化の違いでしょうし、どこの人でも、日本人と同じような性格を持っているでしょうし、申し訳ないけれど、クセのある人もいます。同じであること、違うこと、両方を知って、受け入れて、自ら受け入れてもらいにいくこと。これは国籍の問題ではありません。出会った人、物、文化、歴史全般に言えることです。そして、それを生きている限り広げ続けていくこと。それは出会った人の言葉を知って、必ずしも覚えなくてもいいかもしれませんが、相手の世界に入って、その言葉でコミュニケーションをして、自分とその背後を伝えること、これをグローバルと私は呼んでいます。
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