研究に向く人と向かない人
仏教は「一切皆苦」を説きます。多分ブッダはどこかのタイミングでこれに気づいてしまったのだと思います。結局どこを向いても苦なのです。例えば正座をしていると、足が痛くなり、その内感覚がなくなり、自分の足とは思えない状態になります。でも、痛いのです。寝苦しい時、体勢をどんどん変えますが、それでも眠れませんし、結局どんな体勢でもしんどくなるのです。しんどいと思って、楽な体勢をとったつもりが余計しんどくなり、そのうち姿勢そのものが悪くなる、骨が固まってしまうということもよくあります。楽しいことがあると、必ず終わりが来て、また日常に戻り、その日常をしんどいと感じます。何かの世界チャンピオンになっても、喜びはそのときだけで、いつか、場合によってはすぎにチャンピオンの座から引きずり下ろされます。要するにどこにいても、何をしても、休んでいても、苦が下地にあるのです。私たちは苦が下地になった世界に生きているのです。
ブッダは、この娑婆世界にあって、こんな苦からの解放が理論上可能であることを説きました。これは画期的なことです。ブッダに導かれて、悟った阿羅漢という人たちは、ブッダ以外で苦から解放された人たちでしょうから、理論上誰でもその境地にたどり着くことはできるはずです。
しかし、実際はそう簡単にはいきません。悟りと言っても階梯があり、一足飛びには行けないようです。しかも出家者だけがたどり着けるということになっています。
その意味では地道な努力が必要です。途中、一来果という境地(これでもいいところまで行っていると思いますが)があり、一回輪廻世界にかえってしまうのだとか。最終的に阿羅漢になれるのかどうかも定かではありませんから結局の所、保障なき道を地道に行くしかないわけです。後に、親鸞の時代になると、救済思想が固まり、どんな人でも阿弥陀の世界(つまり苦の対義の世界の極楽浄土)に「往生」できる(させてもらえる)ようになり、非常にダイナミックな世界ができます。しかし、やはり私たちは、娑婆の市井に生きていますので、最後まで目指す道を決めて、できるかどうかはわかりませんが、腹を決めて、最後までたどり着ける考えましょう。
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