大学院に進む意義
築地問題のせいか、よく聞かれます。あまりにも聞かれるので、ネット検索をかけてみると、出るわ出るわ。あまりにもいろいろな意見があり、非常に難しい問題だということがわかります。そうなると、一般に使われている用語から考えてみる必要があり、まずは「基準」が必要です。そうすると、違いが少し明確になります。すなわち「安全」には基準があります。一方、「安心」には明確な基準はありません。だとすると、安全は客観的な指標が必要で、安心は主観的なものであることが言えます。それ故か、安全と科学は関係します。一方、安心と科学は必ずしも関係するわけではありません。本来、安全も安心もどちらも必要なはずですが、この違いは大きいと思います。
安全基準が、科学的見地から決まってくるとすると、これは個人レベルの話ではなく、公共が決めるものになってきます。そうすると、最後は確率の問題になります。そこには必ず「例外」が存在することになるし、安全基準から漏れてしまう人が出てしまいます。とは言え、誰かがどこかで線引きをしないといけないことも事実です。自動車やバイクは誰でも乗りますが、安全基準に即して作られています。だからその意味で安全です。もちろん、いくら技術が進歩しても、完全な安全などはあり得ません。だから必ず交通事故で亡くなる人が出てしまいます。その際、「安全基準を超えた運転」がなされたことになり、それが「無謀」であったり、「危険」であったりするわけです。あるいは「例外的」な安全基準に抵触することが起こるわけです(急にタイヤがロックするとか本来あり得ないことなど)。その意味ではある程度、公共による線引きは必要です。重要なことは、この線の基準が改められるに従って、高くなることです。つまり安全基準のハードルは「徐々に高くしていく」ことが大切です。この逆を行くのは非常に危ういケースが多いということでもあります。
一方で、自動車とバイクでは「安心」は大きく異なります。私も含め、多くのバイク乗りは、バイクを乗ることは、周囲を安心させないことを知っています。周囲は車に乗っている方が安心だと思っていることも知っています。でも何かに理由をつけて(便利、早い、楽しいなどなど)、バイクに乗ります。それだけでも安心は「価値観」の問題であることに気づきます。飛行機も同様のことが言えます。おそらく安全で言えば飛行機が最も安全です。事故を起こす確率は、車に比べて圧倒的に低いはずです。ただ一たび事故が起こるとあまりにも悲惨ですので、衝撃が大きいのです。だから、どうしても安心できない人がいるのも無理からぬことですし、そのような人は飛行機に乗ることを極力回避するはずです。
また、安全基準は、人為的に変化させることができますし、それも必要です。福島の放射能安全基準のスライドは、これはハードルを下げていったため、悪しき変更事例と思われます。一方、現東京都知事は、以前の知事が作った高すぎるハードルの安全基準をうまく使って、以前の知事をたたくことに利用しました。本来、現東京都知事がやるべきことは、いずれ豊洲に移転するわけですから(移転しないとは一度も言っていません)、高すぎる安全基準を満たす方法を考えるか、基準を下げるか(悪しきと言われようとも)、いずれかのはずです。それによって、どちらがより多くの安心を得られるかを考えなければならなかったはずです。高齢者を引きずり出して、さらし者にすることではなかったはずです。その時間で、いろいろなことができたはずです。間違いのないことはいずれ移転するということだけですので、だとすれば、「移転した後の安全と安心」を考えるのが時の為政者の仕事のはずです。これをねじって、「移転ありき」という言葉にすり替えるところが、「抜群のセンス」なのでしょうか。
翻って、「安心」は安全と違って、いろいろな安心があります。豊洲移転を例にとれば、安全は基準の問題であるならば、カテゴリーは限られます。また、不可能であるにせよ、「万人の安全」を想定します。今問題になっているのは、「使うことのない地下水」です(飲まなければいいだけだと思うのですが。得体のしれない地下水なんて、京都でも飲んでいないはずですがね)。一方で安心はそれだけにとどまりません。安心するのは、為政者の側ではなく、豊洲と築地を使う多くの人々です。その思惑は多種多様であり、全員を安心させることはほとんど不可能です。安全は、その基準が決まるまでの科学的プロセスが重要ですが、安心は、人々が結果で主観的に判断します。そこには利害関係も当然関係します。豊洲にせよ、築地にせよ、市場ですから、そこで働く人がまず安心できなければ、商売は成立しません。売る側がいなければ話になりません。しかし、彼らの意見、すなわち、安心基準とでも言うべきものは、バラバラです。商売をする人は、利益の安定は安心につながります。その際、安全よりも安心の方が大事だと考える人は少なくないでしょう。これが良くないことを生むことも多くの人は知っています。しかし、何をもって利益の安定とするかは、人によって考え方が違うからです。また一方で消費者の安心も人によって異なります。また大変流動的かつ不安定なものです。またさらに必ずしも合理的なものではなく、ダブルスタンダードなど珍しくありません。ほぼ感情の問題とも言えます。よくこの問題について「納得のいく説明がない」と指摘されます。その通りだと思うのですが、冷静に考えると、商売の売り手と買い手、さらに言えば、公共市場ですので、築地や豊洲に必ずしも関係しない納税者も含み、さらに言えば、メディアによって劇場化されたことによって、東京と関係のない「世間様」まで絡んでしまっています(なんの関係もない私までも口にしているわけですから)。このような言ってしまえば、全国民に対する説明は不可能ですし、そもそも必要かどうかも不明です。このあたりが問題を混迷化させているのだと思います。
自分の政治的利益のために、安全と安心の違いをうまく利用して、メディアをはじめ、多くの人を扇動し、不安を煽り、何とか委員会という結果的にも意味が全くなかった劇場を作った人は、公金損益の観点からみても、大きな罪を犯しています。今、築地、豊洲に絡む人々は、地下水の問題と関係なく、安心できる人はほとんどいないと推察されます。すなわち現東京都知事のような人が、安全を利用して、安心を脅かす人だと私は考えています。
今回は感情論的なトピックは除外しましたが、本来、この問題は感情的側面に注目することが重要であるため、また稿を改めます。
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