過去を追わざれ、未来を願わざれ
前回の続きです。
「不可思議」=思議すべからずと読むと、思議できない、
思議するに及ばず、思議してもしょうがない。こんな意味合いでしょうか。
仏教はかなり徹底した論理宗教ですから、この思議について
かなりの積み重ねがあります。考える、壁に当たる、身体で覚える、
またその仕組みを考える。この繰り返しです。
しかし、一方で「実践」という言葉がどの世界にもあって、
理屈を覚えるのは嫌いだけど、実践を習いたいという人は、
少なからずいます。もちろん、どの世界であっても、理論と実践は
バランス良く習得すべきであるのは同じです。
仏教は、そこで禅という修行方法をどんどん進化させていきます。
身体を鍛えこんだり、命がけで身体を痛めつけたりする苦行ではない
新たな修行方法として千年以上徹底追求します。
その系譜の一つが禅宗ということになります。
禅宗の道元は「ただひたすら座れ」と言い、かつ、食事も寝ることも
修行と位置づけます。
本来、ブッダの仏教は、出家修行を旨としますので、生産活動を放棄します。
よって、食事は修行ではありませんでしたので、独特と言えば独特です。
しかし、一方で、禅宗では「公案」といって、いわゆる禅問答も
生まれます。一休さんの「はしを渡るべからず」と当たらずも遠からずで、
我々からすると「屁理屈」にしか見えないようなものもたくさんあります。
REBT創始者のエリスはこの公案に強い関心を持ちました。
何せ禅は鈴木大拙が英語で紹介したこともあって、海外でもZENです。
エリスはラショナルリビングにはこの公案の思考がよく適合すると考えたようです。
でも、例えば、片手で音を出せとか、結構無理難題を言います。
これは、おそらくですが、考えつつも、考えすぎないようにする、
必要なことを考え、不必要なことを考えないようにする訓練ではないかと
想像しています。
こういった身体と思考のバランスを考えた思議すべからずも不可思議と
言えると思います。
もうひとつ思議すべからずがあります。
身体の使い方なのですが、正確に言うと骨の使い方です。
古武術とかいろいろみていますが、身体の仕組みには
いろいろ、不可思議があります。
続きは次回
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