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井上博文

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コラム

不可思議を考えてみる3

2014年10月19日

テーマ:仏教

コラムカテゴリ:出産・子育て・教育

ここのところ、身体に関する気づきを得ることに関心を持っています。
これを言い始めたきっかけはこちらに書きましたが、
そもそもなぜ身体に着目したかと習おうと思ったのかと言えば、
現在、私は仏教とREBTの統合を課題の一つとしているのですが、
それをつなぐものとして、身体の使い方への気づきが重要だという
気づきがあったからです。
仏教の瞑想を応用した療法にマインドフルネスがあることは、この数年
知られてきました。仏教は単に理念だけで、平和宗教をうたっているのではなく、
実践的にそういった人間を養成するシステムを持っていたことが
知られてきました。心を安定させる、怒らない、慈悲の心を持つ、
心の分析、感情の分析は、実は仏教では、発足当初から注目されていたと
考えられています。ブッダは、例えば「世界が永遠であるか否か」
「有限であるか否か」「人は死後存在するか否か」こういった問いかけに対して
「答えない」という立場を取りました。「毒矢のたとえ」という有名な話がありますが、
要するに、「世界が終わりがあろうがなかろうが、人は、死ぬし、老いるし、病気になる。
毒矢の刺さった人には、適正な知識をもって治療しなければ死んでしまう」
ということです。
つまり、今、ここで大切なことは毒矢の刺さった人を治療するか、しないか
できるか、できないか、できなければどうするか、という問題であって、
世界に終わりがあるかどうか、といった考えてもわからないことに振り回されることを
良いこととは考えなかったということです。

これはもちろん、REBTにも通じる考え方です。しかし、毒矢のように、緊急の課題であれば
わかりやすいのですが、我々の日常生活の場合、気づかないうちに、毒矢なみの
毒がめぐっていることも多々あります。自分の不安に負けて、ホームページに
他人の誹謗中傷を掲載する人などは、もはや救いようのない状態でしょうから、
これを治療するのは、至難の業です。

だから、私たちは手遅れにならないうちに、まずは、自分を日常的に良い方向に
向かわせることを意識して、変化させていく必要があります。
とりわけ身体の使い方については、毎日使っているのにもかかわらず、
実はわからないことだらけです。正確には気にしたことないことだらけです。
例えば、気功というものがあり、それを使って治療するところもありますが、
これは、テレビの影響もあってか、オカルト的にとらえられることが多いと思います。
これを自由に使いこなす人を知っていますが、この人も仏教の瞑想をしながら
他人を治療します。十数年前、初めて見たとき、衝撃的でしたが、
にわかに信じることができませんでした。摩訶不思議とはこういうことでした。
でも私が信じることができるかどうかなど大した問題ではなく、事実が大切です。
当時の私の頭の中は「何で?」で埋め尽くされていました。
単に何で?と思うような現象を不可思議というのはないことを、ここで
述べてきたのですが、気功も口では説明しにくいもので、あえて言葉で
表現すれば「気」になると習ったときに、何かつかめた気がしました。

それからかなりの年月が経ちましたが、最近は骨の使い方に注目しています。
私たちは筋肉で体を動かしていると考えがちですが、実はちょっとした緊張で
筋肉を収縮させてしまい、身体を小さくしてしまいます。
筋肉には、「習慣」が刷り込まれているのです。刷り込みは脳の専売特許と
考えていましたが、筋肉もそうだということは最近気づきました。
筋肉は骨についているわけなので、骨の動かし方によって、筋肉の動きが
変わることも最近知りました。(ついでもものすごく微妙なものです)
しかし、例えば「手の平にある指の骨」を意識することができるか、
あるいはしたことがあるか、と言われると、「・・・・・」といった感じになりますし、
腕の骨が二本ありますよ、ねじったら、どういった動きをしてますか、と問われると
「・・・・わかりません」といったところです。でも、何で腕の骨を動かすと、二本の骨が
交差するかとか、肩甲骨が何で回転するのか、といったことは、
「だってそういう仕組みだもん」
としか言いようがないわけです。おそらく、脳だとか、血流だとか、思考と感情の
メカニズムだとか、そういったものにも同じようなことはあると思います。
今のところのこの不可思議なる世界の感想は、
「人間の身体ってよくできてるな~」
です。もちろん、進化の過程があるとすれば、多様な経歴をたどってきて
今があるのでしょうが、我々が思議しても、しなくても、日々、身体を
使って生きています。座る動作一つとってみても、よく、椅子が「シュー」と
鳴ることがあると思うのですが、あれも、何も違和感をもちません。
でも、骨の使い方を考えてみると、あれば、座ったのではなくて、
座ることを途中で止めて椅子に落ちたのだという見方に変わります。
何十年も落ち続けた人は、腰に負担がかかっていないわけはありません。
一見、ラクをしているつもりが、実は身体に負担をかけていたということです。
摩訶不思議。


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