チベットの仏教世界展
突然の仏教話ですが、ここ数年、思うところがあって、身体の使い方を習っています。
少し前このコラムで少しふれたのですが、
「気づき」の訓練をしたいと考えたこともあるのですが、私は「THE頭でっかち」を
自認しています。(顔は大きい方ではないと自認しています)
何かエラーを感じるとすぐに頭で否定構文を作って、
「そりゃ、○○の方が望ましいけど、別に今でなくて(完成しなくて)構わない
だから、まぁ、しょうがない」
とこんな感じで、頭処理をしてしまいます。だからREBTの表面上の舌先の格闘技は
得意技だと自認しています。しかし、REBTは意外と感性を大事にします。
論理的思考もかなり感性が重要です。例えば異性とデートで食事をして、
「おなかに入ったら何でも一緒」
などと言われた場合、いろんな箇所に無神経さを感じます。
そうなると、やはり自分の中で言い訳のできない思考を身につける必要がある。
あるいは理屈が優先しない思考を身につける必要がある。
あるいは得意の屁理屈を○×※☆◇△・・・
こんなことを考えました。そこで身体の使い方を習おうと決めました。
とりわけ骨の使い方を知りたいと考えて習っています。
もう一年半くらい習っているのですが、全く身についていないので、
まだ必修の授業などで導入することはできません。しかし、今年これを
口に出そうと思ったのは、ある男性の生徒で、立派な体躯をした人がいましたが、
なかなか自信の持てない様子で、身体がかなり小さく見えるのです。
だから、声も小さい、語尾が消える、字も小さい、肩がすくんでいる
こんな負の連鎖がありました。
これは素朴に不可思議です。そんな立派な身体をなんでわざわざ小さくする?
と問いたいくらいです。もちろんたくさん理由はあるのでしょうが、
どれを言っても正解にはならなさそうです。言葉では言い切れないことも
やはりたくさんあるのです。
不思議とか不可思議という言葉はおそらく仏教で生まれた言葉です。
パーリ語という言葉で言えば、acintiya(カタカナで読めば、アチンティヤくらいでしょうか)
これはaという否定辞とcinteti(思慮する)という動詞の派生語の合成で
できた言葉です。文字通り「思慮できない」「思慮しえない」くらいの意味で
受け取ることができます。
仏教は本質的には思慮しまくる教えです。この世の現実を考えますし、
自分が何でできているか考えますし、他人とのかかわりを考えますし、
自己研鑽を考え抜きます。
しかし、一方で、梵天勧請という仏教徒にとって重要な言葉があります。
ブッダ(悟れし人)が悟ったとき、当初は、
「これで満足、はい終了」
と思っていたようですが、そこに当時のインドの最高神、
あるいは宇宙の法則人格化したような存在であるブラフマン(音写して梵天)が
現れて、語り掛けます。
「そんなこと言わずに、あなたの悟りを言葉にして説法してくだされ」
ブッダは思います。
「いや、そうは言うけど、言葉にするのは難しいし、言っても伝わらないと思いますがね」
当時のインドの出家業界には「聖者の黙然」という言葉があるように、
あまり、自分の体得したものを言葉にして伝えるとか、次世代に引き継ぐという
考え方はあまりありませんでした。この種の考え方は、当時の主流の
バラモン教(この言い方は不適切ですが、わかりやすいのでこれでいきます)が
持っており、仏教は反バラモンとして発足しています(最近はそうでもない説もあります)ので
バラモン教の伝統に乗る必要はなかったのですが、結果論からすると、
ブッダは自分の悟りを言葉にして、数字的に分類して、説法システムを作り
(四諦八正道とか、十二縁起とかとか)、集団(サンガと言います)を作りました。
そこで、誰にも習わず、身体で体得したものを、言葉に変換して、他人に伝えました。
その言葉で悟った人も出ました(でなければのちの仏教はなかった)。
これを阿羅漢と言います。だから、今に引き継がれる仏教で、パーリ語圏の仏教は
ブッダになるというよりは教えに導かれて、阿羅漢を目指すという仏教が一般的です。
そのうち、ブッダの教えは言葉にされて、経典という形で保存されるようになりました。
しかし、ブッダは作家ではありませんでしたので、何も書き遺すということはしていません。
今に残る膨大な経典は、ブッダの直筆ではなく、弟子たちが聞いたものを(多聞とはここから)
暗記して、もう少しあとの時代に文字に変換されていったという歴史をたどります。
たぶん、数百年もすると、「書いて残してくれたおかげ」「書いて残したせいで」という両方の
思いは生まれていたと思います。文字になったから残ったわけですが、文字にされたおかげで
曲解したり、私もそうですが、読めば読むほど意味不明といった現象も生まれたと思います。
こうして頭で考える仏教のファクターが育ちます。
次回はもう一つのファクターである身体で体得する仏教に着目します。
二つ合わせて不可思議が理解?できると考えています。
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