大学院受験で求められるのは、向いていないことはない人で、入学後伸びると思える人です
この国では、塾がエリートを育てているという記事を読みました。
私たち塾業界にある人間にとっては、ありがたい言葉です。
筆者が言うように教育論は、言ったもの勝ちの要素があって、
プロ野球のオヤジ評論家のごとく、テキトーなことを
誰でも言うことができます。
だからこそ、教育論は簡単に対立することもあるため、
混乱しやすい側面があります。今年でゆとり世代が
終わりますが、いわゆるゆとりの不安は、大人ではなく、
当事者である学生を直撃しているようです。
今年浪人すると、来年からは、脱ゆとり世代と争わねば
ならないという不安がすでに蔓延しており、今年の受験生は
難関に挑まず、安全志向なのだそうです。
ゆとりの本当の被害者は子どもだという典型例ですが、
実はゆとりだけの問題ではなく、「上の大学」「下の大学」
という区分けは、予備校の策略であることが、数十年続く
日本における教育の最大の問題です。
今月の『中央公論』では大学のランキング分けに対する苦言が
たくさん指摘されていました。
中学になると、皆が塾に行き、学校の補完をする、そして
高校になると、予備校に行き、少しでも偏差値が上の大学を目指し、
偏差値の高い学校に「入ったら」エリート・・・・
何か違わないか?
こんな違和感を持つ人は増えていると思います。
一昔前までは、それは
「偏差値が高い大学に行けなかった奴の負け惜しみ」
と言われることも多々ありましたが、その時代は終わりました。
今は、言葉は悪いですが、偏差値が低くとも、私立有名大学に
入ることは容易です。当塾に来る有名大学の学生の大半は、
「私はエスカレーターで上がったので受験していません」
「私はAOで入ったので受験経験がありません」
こういったことを言われます。
私は、大学受験をしているか、否かは大学院受験には
関係がないということを伝えています。
日本の教育は、この記事の筆者によれば、政治の教育における迷走を
全国5万ある塾が補ってくれるということです。これを「ハイブリッド教育」
と言っていますが、それは一理あるかと思います。
公教育の迷走ぶりは、目に余ります。
日本には、様々な理念を持って教育をしようという機運が昔からあります。
それだけ国が迷走しやすいのかもしれませんが、個人の理念を具現化した
教育を許す環境もあるという、よく見ると面白い独特の塾文化があります。
しかし、この数十年、大学受験を席巻してきたのは、ただ、偏差値という
ポイントゲームのテクニックを教える大手予備校であって、どの予備校でも
それほど理念に違いがあるとは思えない状況です。もはや大学の受験問題まで
予備校が作っており、大学の理念や考え方が大学受験に反映しない
時代になってしまいました。
理念ある塾の教育には今後も期待できると、私は考えているのですが、
理念なき、ポイントゲームの練習予備校は、少子化のあおりを受けて
いよいよ不安が高まってきています。すでに有力予備校は大学経営に
入り込み、予備校と大学の密着度を高めることが、互いの生き残りと
考えているようですが、これは大きな間違いでしょう。
「民間教育システムの存在は、この国最大のセーフティネットである」
と筆者は言います。私もこのように言いたいところですが、
これは理念ある民間教育システムに限られると思います。
古くは空海の綜芸種智院に始まり、日本にはこのような
民間教育が平安時代からありました。
このような民間教育に共通する考え方があります。それは、時の公教育に
疑問があり、そこで育ったエリートになお疑問が生じたところか始まり、
公教育とは別に幅広く誰でも学べる環境を作り、そこから優れた人材を
輩出して、国や郷土にとって有為な人材を育てようというものです。
私はこれが日本の塾文化だと考えています。
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