私には理解不能「組織票」という愚―何故みんな自分なりの考えに従わないのか?!―
今日の目次
・戻る機能、比喩的な使い方
・反撃を食らわなかっただけマシ
・ブーメランになるためには
・考えられる二つの要素
・恥も外聞もなければ最強
・下手すれば「死語」に
戻る機能、比喩的な使い方
昨今「ブーメラン」という言葉がよく使われます。
言うまでもなく、ブーメランというのは一つの道具です。への字に曲がった平たい板を空中へ思いっ切り投げたら、大きく弧を描いて飛んだあと、投げ手の手元へ帰ってくるという道具です。オーストラリアの先住民アボリジニが、狩猟の際使った投擲器というのがその原型と言われています。
上記では、物理的に存在する道具として、どんな形状でどんな機能があるのかを説明しましたが、昨今、その投げたら手元に帰ってくるという機能の方が、盛んに比喩的に使われるようになってきました。どういうことかと言えば、他者へ向かって行なった悪口や批判などがそのままブーメランのように戻ってきて、自分にも当てはまる或いは突き刺さるという現象のことです。
反撃を食らわなかっただけマシ
例えば、私が子供に
「なんでお前の部屋は何時もそんなに散らかっているんだ!部屋が汚ないということは、お前の心が汚れていることと同じなんだぞ。」
と、怒ったとします。すると、そう言われた子供に
「お父さんだってしょっちゅうお母さんに文句言われているよね。お父さんは自分では何もしないで、いつもお母さんに部屋を片付けさせているじゃないじゃない。」
と、言い返されたとします。それに対して
「うぐぐ、俺はお母さんがやってくれるからそれでいいんだ。お前は黙って自分で片付けろ。」とは、ちょっと言いにくい。
エラそうに
「心の中まで汚れているんだ。」
などと、上から目線で一歩踏み込んで説教したつもりが、
「じゃあお父さんも心の中が汚いの?」
なんて反撃を食らわなかっただけましだった、とでも考えるしかありません。
ブーメランになるためには
ブーメランというのは、ただそれが返ってくる、と言うだけで成立するのではなく、上記みたいにエラソーにしていただけに、その反作用が却って大きかった、というような要素を含んでいます。つまり、「部屋が汚いから片付けなさい。」に対して「お父さんだって散らかっているじゃない。」というシンプルなやり取り程度では、ブーメランと表現するには至りません。
なんだか、上にあげたサンプルがあまりに身近で卑小すぎるのでピンとこないと困るのですが、このブーメランという奴をイヤになるほどしょっちゅう見せつけられるのが政治の世界です。
野党がなんだかんだと、様々な不始末や不祥事などを取り上げて政府や首相自身を責め立てます。中には国会で追及するほどのことか、と思うような些細な案件、或いは週刊誌で聞きかじったような事例を取り上げることも多く見られるようになってきました。
考えられる二つの要素
ところが、SNSなどが普及し仕切ってきた昨今、その追求した内容がそのまま同じように自分たちが過去にやらかしていたことだったりすると、すぐに発見され暴かれてしまうことになります。上記のお父さんではありませんが「何言ってんの。自分もやっていたじゃない。」ということになるのです。
近年、このブーメラン現象がことさら多く見られるようになってきました。
ここでその原因として考えられることが2つあります。
一つは、日本人のマインドなども変化してきて、この種のあつかましさもみんな平気になったんじゃないか、ということです。謙遜とか謙譲の心みたいなものがすっかり失われてしまい、そのために自分のことは棚に上げて、しゃあしゃあと他人ばかりを責めるような人情がはびこるようになってしまったのか。つまり、そんな心根の日本人が増えてしまったために、こんな現象がたびたび起こるようになったんじゃないか、という量とか割合いの問題になります。
もう一つは、上記のようにSNSなどで発したものが記録として残るようになったために、ブーメランの証拠となる発言などを押さえることが技術的に可能になったから。つまり、こんな現象がことさら増えたわけではなく、以前からあったのだが、昔は個人の発言などがいちいち記録として残っていなかったために、ブーメランが起こる環境になかっただけ、という見解です。
私は、おそらくどちらの要素もあるのではないか、と思っています。証拠をあげなければブーメランの発生は特定できませんから、テクノロジー的な要因があることは間違いないところです。それに加えて、「自分のことは棚に上げて」という人間も現実に増えてきたのではないか、と思うのです。
恥も外聞もなければ最強
そんな中、私がさらに不思議なのは、一度食らったブーメランに対して、特に弁明も反省の言葉もあるわけではなく、またいくらも経たないうちに次のブーメランが起きていることです。一度ブーメランを食らったら少しは反省して、次からそんなことにならないように、慎重になるとかしばらく大人しくするとかあってもよさそうなものですが、同じようなことを繰り返しています。こうして、ブーメランは日々繰り返されるようになってきました。
こうなってくると思うのは
「もう、ブーメランという言葉さえ、今の時代に合わないんじゃないか。」
ということです。
ブーメランは、それが自分のもとへ帰ってきて
「しまった!いけねえ。バレちゃったか。」
と自覚するからブーメランなのです。ところが、当人がそんなこと何も気にしなければ、同じようなことを繰り返しても、ブーメランそのものが発生したことにはなりません。
つまり、過去のいかなる言動にも、自分は一切責任を負わない、という図太いマインドを持ち合わせればもう最強ということになります。ブーメランもクソもあったものではありません。恥かしさも反省も何もない。だから同じことを繰り返すのです。
下手すれば「死語」に
以前、西欧は「罪の文化」であり、日本は「恥の文化」であると、何かの本(確かルース・ベネディクトの「菊と刀」)で読んだことがあります。これは優劣をつけるものではなく、それぞれの特徴を言い表したものと思います。日本には「恥を知る」という伝統文化があったはずです。恥ずべきことは自覚するし、やらない、というのが日本人の矜持だったのではないでしょうか。
ブーメランというのは、それを自覚する一つのきっかけになるのでは、と私は思っていました。しかしもし、恥の文化がすっかりなくなってしまったら、ブーメランそのものがその機能を果たせなくなることになります。つまり、死語になってしまうのです。
このブーメランを繰り返す政治家たちを見ていると
「ひょっとしたらこの人たちからは、恥の概念が欠落してしまっているのでは。」
と、思わざるを得ません。いずれにしても、今の政治家のレベルが、あまりにも低すぎるので陰鬱な気分にならざるを得ないのです。
国民から
「ほらまたブーメラン食らっているよ。」
と言われないように、プライドと品格をも言ってレベルの高い政治を展開していってもらいたいものです。
エラソーにしているとブーメランを食らうぞ。
本文と写真は何の関係もありません。


