マナーうんちく話544≪薔薇で攻めるか、それとも恋文か?≫
春の到来の感じ方は人それぞれでしょうが、春の季語として詠まれる花は、春告げ草の異名を持つ梅、続いて桃、そして日本人に最も愛される桜が有名です。
また春は「光の春」「音の春」「気温の春」の順にやってくるといわれています。
立春を過ぎると日毎に日射しが長くなり「光の春」を感じ、次に小川のせせらぎや春告げ鳥の異名を持つ「鶯の初音」で春の到来を知り、彼岸の頃は温度が上昇し「気温の春」ということになります。
先日近くの山で鶯の初音を聞くことができ喜んでいます。
まさに春が喜多ということで、桜前線の動向が気になるところです。
●日本人にとっての桜は神や精霊が宿る存在だった
デジタル全盛の時代になり、またインバウンド客が増加し、花鳥風月が感じられなくなったと嘆かれることが多い時代ですが、桜だけは例外で、日本人と桜の関係は格別です。
だからこの季節ほど浮き浮きする時期はないのではないでしょうか。
桜が咲くこの時期と、書きましたが、桜の花が咲いた後のサクランボ、さらに秋の桜の紅葉の素晴らしさは筆舌に尽くしたいものがあります。
加えて「サクラ」の「サ」は田の神様であり、「クラ」は居場所、つまり神座で、桜には神様を崇拝し、五穀豊穣を祈願する意味が込められています。
まさに日本人にとって、桜は特別な存在であるということでしょう。
●春が性的な意味を持つ理由
そして桜が咲く春は、時としていやらしいイメージで使用されることがあります。
《マナーうんちく話2234》と少し重複しますが、女性がお金のために身体を売ることを「売春」と言います。
売夏、売秋、売冬とは言いませんね。
ではなぜ「春」なのでしょうか。
日本の春といえば、日本の国花にもなっている「桜」ですが、今では桜といえば「ソメイヨシノ」を指します。
ソメイヨシノは江戸末期に「エドヒガン」と「オオシマザクラ」の交配により生まれ、染井村の植木職人が「吉野さくら」の名前で栽培したのが由来になっています。
さらに今では桜前線の基になっている桜です。
今では、それくらい有名なソメイヨシノですが、実は弱点もあります。
寿命が短く、繁殖力がとても弱いということです。
ソメイヨシノの寿命はせいぜい70年から80年といわれています。
今の日本は人生百歳時代ですから、ソメイヨシノより日本人の方が長生きということです。
ただ良い点も多々あります。
なんといっても満開時に葉がなく、花も大きめで、華やかさがあるということだと思います。
そのソメイヨシノの花言葉は「優美」と「純潔」です。
美しい女性の象徴であり、ほぼ白色に近いピンクの色を純潔の象徴としたのでしょう。
だから「売春」とは、美しい女性が金のために純潔を売るという意味になります。
●明治になってヨーロッパで考案された花言葉が日本に伝わった
ちなみに「花言葉」が日本に伝わったのは明治になってからで、当時は入ってきた言葉をそのまま翻訳していたようです。
それが次第に日本人の感性、風習、文化などにマッチするよう日本独自の言葉に代わってきたわけです。
そして言葉では上手に表現できないようなことを、花言葉に託すようになったのかもしれませんね。
●日本における売春と遊女
ただ「売春」の歴史は相当古く、日本でも最も古い職業の一つであったようです。
男性の性欲がある限り売春は存在しますが、日本で売春が営業として成り立つようになったのは10世紀頃からだといわれています。
江戸時代には「遊女」と呼ばれ、春を売る女性がいました。
いわゆる売春婦の古い言い方です。
その遊女は組織に属して客を取る人と、個人で独立して商売する人がいました。
江戸時代には遊女を置いて売春をさせる「遊郭」や「岡場所」がありましたが、いずれも客を有償で遊ばせ、床を共にすることであり、客層は遊郭と岡場所ではかなり違っていたようです。
江戸時代の中頃の人口は3000万人くらいといわれていますが、幕府公認の「遊郭」、そして非公認の「岡場所」と呼ばれる風俗街まで合わせると数千人の遊女がいたようです。
貧しいがゆえに、7歳か8歳頃になると身売りされ、16歳頃になると客を取らされ、以来、年季明けといわれる20代後半まで働き続けてきた遊女。
生きぬ気をすることがあったのでしょうか。
●徳川吉宗が作った桜の名所で遊女も花見を楽しんだ!?
遊女も、春になると花見を楽しんだとか。
江戸の花見は上野が有名ですが、徳川吉宗は隅田川の土手(墨堤・ぼくてい)に桜を植えるよう命じて、そこを花見ができる名所にしました。
墨堤は夜桜を楽しんだ後で、隅田川を渡って吉原(江戸で初めて登場した遊郭)に行くことができたので、多くの男性に人気があったようです。
また夜になると、墨堤には綺麗にお化粧した岡場所の遊女や、水茶屋娘がライトアップされた夜桜見物を楽しんだとか・・・。
主に金持ちの商人や文人や高級武士を相手にした遊郭の遊女たちは、それぞれのなじみの客にお金を出してもらい、弁当と酒を持参し、一緒に踊り、三味線や琴を楽しんだのでしょう。
勿論なじみ客へのお酌も大事な接客です。
一方組織に属して商売する遊女の他にも、どこにも属さず個人営業の遊女もいました。
テレビや映画の時代劇に登場する「夜鷹」と呼ばれる遊女です。
頭巾をかぶり、茣蓙(ゴザ)を抱えて、夜間に路上で男に声をかけ格安料金で売春をするわけです。
夜間に商いをするので夜行性の鳥にちなんでつけられた呼び名ですが、遊郭の遊女よりかなり高齢の女性が多かったようです。
遊郭のようにきれいや部屋の中ではなく、地面に茣蓙を布いてですから、極安料金になります。
従って客層も低賃金労働の人が対象だというのは予測できますが、サクラの時期には夜桜も同時に楽しむことができたのではないでしょうか。
いずれも常に性病におびえながらの過酷な労働であったことは間違いないと思いますが、恐らく生きるためには、それしか選択肢がなかったのでしょう。
普段過酷な労働を強いられている遊郭の遊女にとっては、なかなか外出する機会がないので、花見は最高のレクリエイションだったと思います。
●江戸時代の遊郭の企業努力は令和の今でも参考になることが多々ある
遊女は自分でお金を出してまで花見は無理なので、なじみの客に頼るわけですが、こうなると普段からの接客スキルやコミュニケーション能力は当然必要になってくると考えます。
中でも岡場所の遊女や夜鷹と呼ばれる遊女に比べ、遊郭の遊女は客層がいいので、当然それなりの教養も要求されます。
俳句、三味線、琴、華道に茶道、書道、囲碁に将棋、そして礼儀作法も備える必要があったのではないでしょうか。
顧客満足のための自分磨きが大切だったと思います。
それに加え遊郭では「年中行事」を上手に取り入れ商売に活かしていたようです。
素晴らしい企画力や実行力があったと思います。
春の花見の季節には季節限定で「吉原」に見事な桜が沢山運び込まれ、植木職人により人工的な桜並木が作られ、それを多くの人が見物に来たとか・・・
さらにお盆が最も忙しい時期ですが、このころには様々な思考を凝らしなじみ客を楽しませる工夫をします。
お盆に必要な品物を販売する「草市」も吉原で開かれたとか。
加えて「マナーうんちく話」でも触れましたが、旧暦8月1日の「八朔(はっさく)」の日は、遊女たちは白無垢の真っ白い服を着て接客しています。
白色は涼しい色ですから、涼を視覚で提供したわけです。
まだまだ残暑が厳しい時期に、見るからに涼しい装いでなじみ客を喜ばした、このテクニックは実に素晴らしいと思います。
「中秋の名月」や「十三夜」も繁盛したことでしょう。
●日本の遊女は選択肢がなかった
最後に世界中に遊女はいるものの、ヨーロッパの遊女はより稼ぐために自ら遊女の道を選ぶ人がいたといわれています。
それに対し、日本の遊女はほとんどが親の借金の為で、これ以外に選択肢がなかったといわれています。
江戸時代は世の中がまだまだ貧しく、生活苦に陥っている人は沢山いました。
貧乏な人が借金する際、担保になるのは婦女子のみです。
今の時代では考えられないことですが、所定の手続きがふまれ、証文もあるのでその頃は合法的だったわけです。
そしてその担保になった幼い女子が遊郭に売られ、遊女になるわけですが、
当時は抗生物質もなく、不特定多数の男性に身体を売ることでほぼ百%罹患する性病のリスクを抱えながらも、あの手、この手で逞しく生きてきた江戸の遊女。
そういうプロセスを経て今があると思うと、うららかな日差しの下で、桜を愛でながら飲み食いを楽しめることに感謝・感謝です。