マナーうんちく話502≪会話の中に季節の話題を積極的に!≫
田植えを終えたばかりの近所の田んぼの水田が、さんさんと照り付ける日差しに反射してキラキラ輝いています。
この時期には毎年みられる風景ですが、田舎暮らしならではの美しい田園風景で、散歩がより楽しくなります。
そして我が家の庭に生えている半夏(からすびしゃく)の葉が部分的に白くなってきましたが、暦の上でも7月1日から6日頃までが「半夏生ず」です。
半分化粧したように見えるから半夏という名がついたという説がありますが、この時期までに田植えを終える目安になっています。
さらに半夏が生える時期であることから「半夏生ず」という名がついたわけですが、「マナーうんちく話」で何度も触れましたように、節分、彼岸、八十八夜、入梅、土用とおなじような「雑節」です。
二十四節気や七十二候以外に、季節の移り変わりをより正確に把握するために、日本の生活文化の中から生まれた特別な歴日ということです。
昔は農業に携わる人が圧倒的多数だったので、農事に関して様々な風習や教えがあり、雑節も貴族や武家階級で用いられている「二十四節気」や「五節句」とは意味合いが異なります。
ちなみに「冬至」にカボチャを食べることはよく知られていますが、地域によっては夏至や半夏生の時期に「タコ」を食す風習があり、私が住んでいる地域ではスーパーの折り込みチラシなどで宣伝しています。
タコの8本足にあやかって、田植えを終えたばかりの稲が根付くことを願うわけですね。
ところで今でもこの時期は食中毒が発生しやすい時期で、昔の人は半夏生ず頃は、天から毒気が降るという言い伝えを守り、穢れを払うために農作業はしなかったそうです。
そして穢れを払うものといえば「扇子」ですが、暑さと穢れを払うために扇子をお供にされるのもお勧めです。
単にクールビズの一環というより、コロナ禍ですので、穢れも払う目的も加味されたら如何でしょうか。
そして全国津々浦々「夏祭り」が開催される時期ですが、今年はコロナのせいで、規模が縮小されたり、中止になるところが多いようで残念です。
特に夏の祭りは、高温多湿のこの時期に穢れを払う目的で開催されるわけですが、コロナ拡大を助長する恐れがあるオリンピックが開催され、疫病退散祈願の夏祭りが中止となれば、本末転倒も甚だしいと思うのですが、いかがでしょうか。
儲かれば何をしてもいいという理屈は通らないですよね。
金より大切なものも沢山あるでしょう・・・。
聖徳太子が「和を以て貴しとなす」と唱えて以来、日本は「和する」ことをとても重んじてきたわけですが、それは神輿を担ぐときの「ワッショイ」という掛け声に表れています。
「ワッショイ」は「和」を背負うわけですね・・・。
オリンピックを主導している人が、オリンピックで和の精神をと呼びかけましたが、オリンピック開催に賛成派と反対派が分断され、しかも国民の多くの人が不安がっている中で、和の精神は生まれるはずがないと考えます。
そして7月7日は五節句の一つ「七夕」ですが、これは「たなばた」とも「しちせき」ともよみます。
私が住んでいるところは中山間地域で空気がとてもきれいですので、満天の星空を見ることができますが、乳をこぼした後ともいわれる「天の川」はみられなくなりました。
この天の川を挟んで、織姫と彦星が年に一度の逢瀬を許されるわけですが、地上では人々が「どうか晴れますように」と願うとともに、自分の願い事を五色の短冊に書いて笹の葉にむすびつけます。
だから七夕は「笹の節句」ともいわれますね。
でも雨が降ったらどうなるのでしょうか?
そのときには天帝の命を受けたカササギの集団がやってきて、羽を広げて橋を作ってくれるので、いずれにせよ年に一度の逢瀬を楽しむことができるわけです。
7月は旧暦では「文月」ですが、これは短冊に願い事や詩歌を書いて笹に飾ることからつけられたという説もあります。
さらに年に一度だけ天の川で愛し合えるので「愛逢月(めであいづき)」ともよばれます。
昔の人は本当に都合よく物語を作りましたね。
それだけ心が優しかったのでしょうか。
また七夕に「素麺」を備えますが、この時期は麦を収穫したての頃です。
だから麦で作った小麦粉で素麺を作り、収穫のお礼をしたわけです。
この様に七夕には多くの伝承が存在しますが、古事記に登場する棚機津女(たなばたつめ)や中国の星まつりなどが混ざって今の祭りになったようですから、願い事は何でもありではなく、裁縫、作文等の上達を祈念するのが適切だと考えます。
特に昔の女性にとって「裁縫」はとても大事な仕事だったわけで、私もつい5年くらい前までは、女性を対象にしたブラッシュアップ講座などでは、ハンドバッグに裁縫セット及び懐紙を入れておくようお勧めしていました。
さらに七夕が過ぎれば「蓮始めて開く」頃を迎えます。
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉の通り、清らかな姿が昔の人を引きつけたわけですね。
泥の中に根をしっかり張り、水面に凛とした美しい花を咲かせる蓮は、自身の力で自浄できる力があるのでしょう。
きれいな水に、きれいな花が咲くのは当たり前ですが、泥沼の泥を栄養とし、泥に染まることなく、清く、正しく生きることを教えてくれる気がします。
泥沼とは人に例えれば、つらいことや悲しいことです。
コロナで「人生こんなはずではなかった」と苦境に立たされる人も多いと思います。
でも悩んでばかりでもいけません。
辛いことを経験したからこそ、人の痛みや辛さが理解できる人になれるはずです。
まえむきにあゆんでいただきたいものです。
多くの人に尊ばれ、仏と結びつく蓮には、それなりの理由があるわけですね。
今日から令和3年も後半です。
身も心も元気で前向きに歩んでまいりたいものですね。