マナーうんちく話453≪冬来りなば春遠からじ≫
この時期になると冬野菜もとうが立ち、次第に食べごろが過ぎるようになります。春が来たということです。
ところで自粛生活を余儀なくされて1年が経過しましたが、今回の新型コロナで、自然の猛威を改めて実感した人も多いのではないでしょうか。
地球温暖化で雪も雨も風も中途半端ではなくなり、百年に一度といわれる大災害がめずらしくなくなりましたね。
昔のように自然に繊細さがなくなったということでしょうか・・・。
四季の国日本では、自然のゆったりした移ろいの中で情緒豊かに暮らしてきたのですが、この半世紀で暮らしが激変した感があります。
コロナ禍で心配事や不平や不満も募る一方ですが、人間の都合だけで自然に対して好き放題してきた付けが回ったのかもしれません。
いまこそ謙虚に反省しなければいけない時期に来ている気がします・・・。
経済の発展と地球の環境保護の両立は歴史的に見ても至難の業ですが、それにしても、考えさせられる点は多々あるはずです。
年中行事の在り方もそうでしょう。
商業主義が勢いを増し、行事そのものの本来の意義や意味を見失っているものも少なくありません。西洋文化に押されて影をひそめたものもあります。
長い、長い歴史の中で育まれた日本の年中行事は、日常生活の中で培われた先人の知恵の結晶です。
さらに人生の節目、節目には人の成長に関するものや冠婚葬祭関係など様々な儀式があります。そしてこれらの儀式や年中行事は五穀豊穣、家族安泰、子孫繁栄、健康を喜ぶと同時に、自然の神、生活の神など日本の様々な神様に祈るもので、幸せを願う日本人の心そのものです。
だから今を生きる現代人の都合だけで変えてしまっていいものではないし、途絶えさせてはいけないものと考えます。
感謝や思いやりの心を根源とする日本の礼儀作法しかりです。
美味しければ、楽しければ、売れれば「何でもあり」の風潮が高まる中、思いやりや感謝や謙虚さもなくなった気がします。相変わらずいろいろな世界で不祥事が絶えませんが、謙虚な心や潔さのみじんも感じられなくなりましたね。
改めて先人の生き方に、コロナ禍を豊かに生きるヒントを探りたいものです。
特に明治5年まで、全国津々浦々で使用されてきた《旧暦》は、まさに自然と人の暮らしを結びつける役割があった気がします。
冬至と夏至、春分と秋分を起点に、一年を24に分類した「二十四節気」、それを、さらに3等分に細かく分けた「七十二候」にも心豊かに生きる知恵が凝縮されています。
花や鳥や魚、雪や風や雨などの気象の変化を細かく観察し、「立春」「雨水」「啓蟄」「春分」とか、「東風解凍」「魚上氷」「草木萌動」「菜虫化蝶」などの趣のある名前を付け、自然に寄り添ってきた暦です。
立春から春がスタートして、立夏で夏が産声を上げ、立秋には秋の気配が漂い始め、大寒に冬が終わるわけですが、二十四節気や七十二候の名前の意味を理解すれば、365日がさらにゆたかになるでしょう。
あわせて「マナーうんちく話」でも登場した睦月・如月・弥生・卯月・皐月・水無月・文月・葉月・長月・神無月・霜月・師走など「和風月名」の由来にも関心を持っていただきたいものです。
「マナーうんちく話」でも触れてきた「春告げ草」「名残雪」「雪割草」「桜狩り」「春興」等、季節の美しい言葉も気にかけて下さいね。
都会のマンション暮らしでは感じられないかもしれませんが、田舎ではコロナ禍の今でも、春の息吹や鳥や虫の美しい鳴き声が聞こえ、風情が楽しめます。
季節をいつくしむことにより多くの喜びを感じることができるということです。
「オンライン」に目くじらをたてるのもいいかもしれませんが、その前に自然に畏敬の念を抱き、その恵みに感謝しながら豊かに生きてきた昔の人々の謙虚な生き方を見本にするのもいいでしょう。
真摯な気持ちで今までを振り返れば、見えなかったものが見え、気づかなかったことが気づき、日常の生活がさらにキラキラしてくるのではないでしょうか。