まずは日本語力を重視しましょう
風がふけば桶屋が儲かるというコラムをずいぶん前に書きました。仏教の説明をするときにこれを使う人は多いのですが、要は連鎖のことを言っています。多分地球的には、正も負もないと思うのですが、私たち人間には、正の連鎖と負の連鎖があります。もちろん正負解釈は人間の都合と解釈です。しかし、私たちの都合だけではなく、例えばコロナもそうですが、自然現象も私たちの連鎖に大いに影響があり、人間は一人で生きていないし、自然の中で生きていることを実感させられます。自然の中に生きる以上、諸行無常は避けることはできません。諸行無常もまさに連鎖のことを言っており、厳然たる事実を私たちに突きつけます。私たちは、一見正か負かわからない連鎖の中に生きており、しかも諸行無常である以上、一瞬とて、同じ状況にないため、一度うまくいったと思っても、あるいはどうにもうまくいかないと思っても、その瞬間から違うものになっているので、極めて不安定に見える事象の中に暮らしています。私たち人間ももちろんそうです。そこから見えるのは、私たちは、単体の物体ではなく、様々なものがよせて集まった集合体であることです。直接要因としては、例えばタンパク質とカルシウムのかたまりとも言えなくもありません。これは、ほとんど誰もがもつ普遍的要因です。しかし、人間を構成する要素には間接要因もあります。典型が心です。心の持ちようで、顔まで変わってしまうというのは、納得できる話です。
つい、私たちは(特に私は)わかりやすい方向に物事を捉えてしまいますので、わかりにくい連鎖から目をそらしてしまいがちです。だから普通に暮らしていると、連鎖にまで思考が及ばないことがほとんどです。
物を考える中で、重要なことは、このめぐりめぐって、(暫定的)最後、どんな結果につながるか、ということです。めぐりめぐってどうなるかというのは、場合によっては想像もつかないことがあります。私たちは想像力が大事であると、誰もが言いますが、想像力として大切なことの一つは、このめぐりめぐってどうなるかをできるだけ大きな連鎖で考えられるかどうかなのです。
しかし、新型コロナは、いまだに第八派などと言われ、社会を一変させました。社会が一変するというのは、社会の連鎖が変わったということです。正確には、今まで私たちが理解していた連鎖が、通用しなくなったということです。一変するのは、当たり前だと思っていた私たちの生活であり、今までのシステムや常識、ルールなどの私たちを拘束するものです。要は私たちが変わったのです(コロナも変異している)。正確には私たちが当たり前だと思っていたネットワークが徐々に別のネットワークに半ば強制的に形を変えたり、移動したりしていっています。この連鎖がどのような連鎖かは、私たちはまだ慣れていないので、不安になりますし、適応できない人もいるかもしれません。大学で言えば、オンライン授業が当たり前の選択肢になったことに適応できる人(教員を含む)もいれば、できない人(教員を含む)もいるのと同じことです。予備校もそうです。今までの常識や成功体験にとどまっていると、気づけば時代遅れになってしまい、連鎖から追い出されてしまっていることなど珍しいことではありません。
想像力が重要なのはここからです。私たちが感じるところの社会の一変が向かう先を想像することが重要ということです。古き因習にとらわれる、新しいことをしたくない、今まで慣れてきた環境が変わるのが不安・・・適応できない言い分は無数にあります。企業用語で言うならば「できない言い訳」です。企業ならば、その企業が倒れるだけでいいのですが、社会は、概念ですから、概念は結果でしか語ってくれません。想像力があれば、できない言い訳を探さず、適応できるネットワークの全体像を見渡して、アミダの分かれ道を探して、進んでいきます。ある意味、今までの連鎖でうまくいかなかった人は、チャンスとも言えます。実際そういう人はたくさんいます。社会が一変したことで、こんどの連鎖の中では自分が活躍できると考えている人を私はたくさん知っています。今までを断捨離するという条件はつきますが、リセットして、新たなネットワークの中で生きる道筋を探すことも大切なことだと考えています。
私は必修という授業を20年してきましたが、目的の一つは負の連鎖を脱却して、良い連鎖を作ることです。良い連鎖を作るのは簡単ではありませんが、今の自分を作っている無数の因と縁と原因と結果に向き合って、「なぜこうなった」かを分析することは、可能です。誰と出会って今があるか、何で公認心理師や臨床心理士になろうと思ったか、どんな本を読んで考え方が変わったか、自分をもっとも成長させてくれたものは何か、などなど
具体的、抽象的要素への問いかけは、無数にあります。例えば車一台ができる過程に目を向けてみるとわかりやすいと思います。タイヤがなければ、もはや車とは言えないかもしれませんが、そのタイヤは誰が作ったか、ガソリンはどこからきているか、誰が生成しているか、部品一つ作るのに、どれだけの工場が絡んでいて、何人の人がそこで働いているか、こんなところに想像力を張り巡らせてみると、私たちは決して一人で生きているわけではないということに気づきます。おそらく「思いやり」というのはこういった考えから生じてくるのだと思います。この意味での思いやりができてきたとき、良い循環も生まれてきていると考えることができるのです。
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