想定外が起こった時にわかる強さ
まずは方法を変える
皆さんは、「勉強をする」とはどんなイメージがあるでしょうか?実はやっかいな問題で、勉強をするということには確たる定義はありません。基本中の基本であるにも関わらず、自分で考えなければならない問題ですから、勉強するとはどういうことかという問いについての回答は人それぞれということになってしまいます。だから定期的にこれまでの自分の勉強観を崩してみる必要性があるのです。それだけでも勉強に関してネガティブな印象は格段に減ります。崩し方として、私が提唱するのは、方法を一掃してみることです。例えば、英語の場合、日本全国津々浦々で実はほとんど同じ勉強方法をとっています。そのやり方は明治時代の漢文読み、つまりレ点、返り点一二点を打つ方法の延長線上にある方法です。つまるところ「バック読み」です。本来、漢文に訓読点を打つのは高等技術です。しかし、それと英語に訓読点を打つことは意味が違います。英語と中国語では、そもそも語族が違いますし、中国語と日本語は少なからぬ関係がありますが、英語と日本語の共通点などほとんどありません。インド・ヨーロッパ語族は格変化をはじめとして変化することが基本です。日本語は単語自体が変化することはなく助詞をつけて、文節を作り、文節を関係させて文を形成するという方法です。英語とは根本的に文形成の方法が異なるのです。それにも関わらず、漢文読みの延長線上の読み方しか習わず、他の方法を知らない人は、総じて苦労しています。
まず英文と出会う。声に出さずになんとなく見る。わからない単語を探す。辞書をひく。行間に小さい字でわからない単語の意味を書いていく。適当にかっこを打つ。適当に後ろから「かかりそう」な単語に矢印を打つ。バックして、意味が通ればOK。通らなければ・・・・?全体の意味の取り方は・・・なんとなくだいたいわかるかな?実は多かれ少なかれこんな人が大半です。でも全国共通ですので地域性は関係ありません。私たちは習ってきた英語教育はこのような読み方を作ってしまうように形成されているのでしょう。
しかし、これは明らかにガラパゴス英語教育です。世界の大半の英語教育で、「バックして読め」と教える国は、私が知る限りありません。隣国の中国も韓国も、その国の知り合いから聞いた限りでは音読を徹底させるところからはじめて、英語としての表現を記憶して、それを駆使させる教育を徹底していると聞いたことがあります。これまでの自分の勉強方法に疑いをもち、正しい方法を見つけるために他の方法を学び、実践してみる。多少の勇気も必要ですが、新しい方法が、自分にフィットしているということに気づき始めると一気に楽しくなってきます。
今更ながら勉強は自分のためにする
京都コムニタスには基本的に勉強したい人が来ています。もう長らく運営していますが、勉強したくないと言われたことは、まずありません。ほとんどの人は、勉強方法がわからなかったり、受験情報がなかったり、たくさんの仕事がある中で、間に合わせられるのかどうかが不安といった考えで当塾まで来られます。
一方で、大学で授業をしていると、それほど多くはないですが、たまにアンケートで、「レポートが負担」「何で論文を調べてレポートを書かねばならないのか」なんて書かれることもあります。何で?って、そりゃ大学生だからさ、と言いたいところですが、大学に来ていて、勉強するのが嫌って言われても・・といった気持ちになります。
私は小学生から70歳すぎの人まで教えたキャリアがありますが、やはり小学生、中学生、高校生は「親に言われたから勉強しにきてやっている」と考えている人が少なからずいました。このような状態で勉強をしてきた人ほど、大学生になった時に「もう勉強しなくていい」と考えがちです。私に言わせれば、大学生の時ほど勉強できる時はないと思います。自分でもあとで振り返って、あんなに勉強した時期はなかったと言えるくらい勉強して欲しいと思っています。
意外に難しい目標設定
勉強がしたい人の基本は、目標があることです。単に学びたいにせよ、資格が欲しいにせよ、目標を設定すれば、その準備として勉強をしようと思うようになります。ただ、これは、子どもの時に目標設定の習慣があった方がうまくいく確率が高いようです。子どもの時に確たる目標設定をしたことがない人は、いつからでも遅くはないので、まずは目標を明確にして、それを実現するための計画と実現後のイメージを作ることから始めてみましょう。大学院入試で言えば、入試のイメージよりも入学後のイメージを先に作ることです。私たちは歪んだ教育を受けてきていますので、入学後のことよりも、入試のことを人生の一大事と考えてしまい、何をイメージすればよいかわからないまま、受験勉強だけをしてしまうと勉強が単に苦痛になるとメカニズムになってしまいます。入学後のイメージを先に作り、目標設定を明確にすれば、その手段として勉強がしたくなるのです。しかし、通常、大学生以上になると、もう誰も勉強しろと言わなくなります。また、受験という目標がなくなりますので、何をモチベーションとすればよいかわからないという声も聞きます。目標設定は自由になった分、どうしたらいいのかわからなくなるというのは理解できます。しかし、「だからとりあえずシューカツまでは遊ぼう」と漠然と考え、何となく行動すると悲劇への第一歩と言えるでしょう。多くの大学生は勉強(特に大学の)が楽しくないと考えているようです。これは現代のオートメーションシステム教育の責任が大きいと考えられます。それでもコロナ禍にあって、最近は大学もかなり工夫するようになりました。学ぼうと思えば十分に学べる環境は、だいたいどこの大学も整っています。図書館の環境もほとんどの大学はすばらしいものになっています。
大学環境の探検
そこでまず勉強がしたくなる法則の第一は、大学の環境を探検してみることです。私は大学生になって京都中の大学すべてを探検しました。(京大は大変でした)
大学ごとにさまざまな特長があって、面白いのです。今と違ってたいていの大学は図書館にも手続きをすれば入れてくれました。また私が大学生になったころから、単位互換制度が始まりましたので、堂々と他大学にいけるようになったこともよかったと思います。そのような制度を利用して、どんどん他大学にも足を運んで、施設を探検すると、まず大学に興味がわいてきます。そうすると自分の大学の歴史であったり、変化の過程などにも興味がわきます。そこから知的好奇心の連鎖が始まるのです。
やる気スイッチも方法もない
よく受ける質問の中に「やる気を出す方法を教えてください」というものがありますが、これは難しい質問です。これまでの経験上、「ないことはない」という程度の回答しかできなさそうですが、結論としては「ない」と思います。「やる気」という言葉を使う人は、どちらかというと「勉強以前のやる気」を指している場合が多いと言えます。一方で「モチベーションを上げる方法が知りたい」ということであれば、これは「勉強に対する」ということが前提にあると言って良いと思います。ただ、やる気にせよ、モチベーションにせよ、共通点としては「成功体験」が両者を高めてくれると言えます。「できた」という感触は代用し難い感触で、私たちにとって非常に有用なものなのですが、これを得る方法というのが世の中になかなか出回っていないのが現状です。成功体験は小さいことの積み重ねです。
失敗に学び、小さな成功を積み上げる
よくビジネスの世界では成功に学ばず、失敗に学べという格言がありますが、成功と感じるものは実は偶然的要素や巡り合わせがよかったものが多く、成功者のインタビューを見ても、かなりの人が「運が良かった」と言っています。もちろん、目に見えない努力も多々あるでしょうから、そのまま鵜呑みにはできないですが、それだけ成功者は成功において「運の要素」を無視していないことになります。ゆえに、私たちはあまり他人の成功体験はあてにはできません。しかし、だからと言って失敗体験に学ぼうとしてもモチベーションをあげることは難しい。これでは八方ふさがりになってしまいます。そこで、失敗の少ない小さな成功体験の積み重ねも重視すべきです。この場合、最初は誰でもできる成功を設定します。例えば「単語を一つ覚える」でもかまいません。それをまず自分で「できた」と認識し、次に他人に「できた」と言ってもらうことも大事です。自己認識だけではなく、他人からお墨付きをもらうとこれは立派な体験に変わります。当塾では、私がこの役割を果たしています。私は徹底してこの体験を積み重ねてもらうように指導しています。例えば小論文指導の場合、前回よりもここがよくなった。だから、次はここをよくしましょうと指示を出して少しずつ成長をさせていきます。そうすると数回で、模範解答と言えるものを作ってくれる人も出ます。その成果物は、どこに出しても役にたちますし、さらに応用もききやすいですので、このような成果物を一つでも増やそうとすると、徐々にモチベーションが上がってきます。そうすると、自然と勉強をしたくなってくるという連鎖です。
「勉強しなければならない」に書き換えない
勉強がしたくなる法則として一つ考えておきたいことは「勉強がしたい」ということを「しなければならない」に書き換えないことです。これは今の受験システム上、気づかないうちに簡単に書き換わっています。
「勉強をしなければ受験に落ちる。ゆえに勉強しなければならない」
「勉強をしなければ受験に落ち、良い大学に行けないゆえに将来良い就職ができない。ゆえに勉強しなければならない」
私たちが当たり前のように親や先生から言われてきて、あまり具体的に疑ったことのない言葉だと思いますが、まずはこれについて疑ってみましょう。私は勉強というものは「いずれ解放されるもの」とは考えていません。死ぬその日まで学び続けられたらベストです。「もう勉強しなくて良い」日など本当は来ません。私たちは少年時代、受験の偏差値がいくら高くても、税金も年金も知りませんでした。ある日突然、税金を払えだの年金を払えだのといった請求書が届き、何これ?と不安になったりします。そうすれば勉強せざるを得ません。また例えば親になったとして育児について学校で教えてくれるかというと、学校はあまりにも無力です。世の中に育児不安を抱えている人がどれだけ多いことか。虐待の問題はいつも大騒ぎになるけれど、虐待をしないための教育方法など誰もしりませんし、そのような偏差値を出す術もありません。自分で学ぶしかないのです。
大学の勉強は自分で切り開く能力を身につけること
本当に必要なのは、自分で学び、自分の道は自分で切り開く能力です。そのために受験勉強を手段として考えられるならば、受験勉強も意義のあるものになります。しかし、他人から言われたことだけを、その通りにこなす能力しか備わっていない場合、受験勉強だけが目的化してしまうと受験が成功するか否かにかかわらず、受験をゴールとして燃え尽きてしまうのです。一度燃え尽きてしまうと、もう一度火をつけるのはなかなか大変です。私の見てきた経験では、やはり一度燃え尽きた人は、「勉強しなければ・・・・・になってしまう」という思いを持って、余計にうまくいかないという人が多いようです。余計なことは考えず「勉強したい」という思いだけを純粋に持ち続けることがコツになります。本質的に学ぶのが嫌いという人は実際はほとんどいません。面白いと思ったことはどんどん追求する人が大半ですし、これだけスマホを皆が見ているということは、それだけ情報を求めているということでもあります。
スタートは「何から始めたらいいかわからない」から
「何をしたらいいかわからん」
私もよくこれを思いました。私は幸いにして、大学で師匠と出会い、すべきことを習うことができました。人との出会いは人生においてもっとも重要な出来事です。師匠との当時の会話の中で、まず読めと言われた人物が、偉大な仏教学者であり、比較思想学者である中村元氏でした。まずこの人のすごさを理解しろと言われたのです。もちろん当時の私には、それが自分にとってあまりにも高いハードルだったということさえわからなかったと思います。ただ、そのときたまたま出会った本がこれです。
この本は今は中村氏の生誕100年を記念して再販がなされ手軽に読むことができますが、当時私が影響を受けた一書です。中村氏は東京大学に行きながら、インド哲学という、当時日本では周囲から眉をひそめられるような学問分野を選びつつも、生涯をかけて「勉め強いた」エッセンスがこもっています。今読んでも十分に読みごたえのある内容ですので、是非、手に取って見ていただけると、勉強するということがどのようなことかということがかなり理解できる深みのある
文言と次々に出会うことができると思います。
自分のしていることは面白い
勉強がしたくなる人の共通するのは自分のしていることについて「面白い」と言い切れる人です。もっと正確に言えば、自分の入った枠に自分をはめてみて、その中で面白さが見つけられるということです。よく大学生にあるのですが、第一志望は心理学だったけれど、他の学部に入ってしまった。だから大学時代は何も面白くなかったという人がいます。しかし、面白さはどこからでも見出すことは可能です。まずは自分の置かれた環境を客観視して、その上で、まずはその環境で精一杯力を尽くしてみることです。そうすると、自分でも意外なほど、自分のこれまで生きてきた過程とその環境との一致点を見出せるようになってきます。そこまでたどり着くと、あとはどんな道に進んだとしても、何とかなるもんだという考えに変わり始めます。そうなると、面白さが自然に見えて来ます。面白さが見えてくると、世の一流研究者の考える面白さに共感できるようになってきます。それができるようになってくると、他の研究者のすごさがわかってきます。そして面白いことを追求しようという意思がわいてきます。ある程度追求ができてくると、今度はさらに新しい面白味を探し始めます。このような連鎖が見えて来た時、誰から言われることもなく自ら学ぶ人になっているでしょうし、自分の進むべき道も見えて来た人になっているでしょう。
アカデミックスキルはライフ(命、生活・人生・生き方)のスキル
学問をすることは、自分の生き方を決めます。大学を受験するまでの段階で、どのような学部に行きたいかが明確でないならば、別にどんな分野を選んでも構わないと思います。可能であれば、どんなことに取り組んでみたいかを早い段階で決めていた方が、大学での勉強に前向きに取り組めるとは思いますが、私たちが受けてきた高校までの教育では、「何がしたいか決めろ」と言うだけで、良い方向に導いてくれるということは稀ではないかと思います。だから、大学に入ったなら高校までの教育は、一度リセットして、自分を形成し直すためにも自分が入った学問分野に自分をはめ込んでみることが重要です。そうすると、どんな学問分野にも共通するアカデミックスキルとしての論理的思考があり、他者を説得するために自分の意見を構築することが求められ、根拠を示さないならば、いかなる主張もできず、根拠を出すために、それを探す旅をするということに気づきます。学問分野ごとに異なるのは、証拠(データ、情報)に物語らせる「方法」と証拠探しの旅の方法です。例えば文献学なら、その旅先は文献の中にあります。京都文教大学の平岡聡先生は、この旅のことを「眼というスコップを使った発掘作業」と喩えておられますが、まさにその通りだと思います。また例えば考古学や文化人類学などは、現場に行かねば
話にならないでしょうから、文字通りの旅をしなければなりません。はたまた医学や遺伝子工学は、人間や動物、生物の中に入り込み、ある部分では宇宙に旅するような気持ちになるという話をよく聞きます。どのような学問分野を選んだとしても、あるいは、以前目指していた分野ではなかったとしても、この旅先を決めて心と身体の準備をして、旅を実行するならば、勉強をしたくてしょうがなくなることは間違いありません。
発見と出会う
地道に研究活動をしていると、たまに「発見」があります。私にもいくつか経験があります。発見はどんな学問分野でも地道に作業を進めているとやってきてくれると思います。発見は「気づき」です。気づきとはその発見したものの意味、価値に対する気づきです。それは地道に文献を読んだり、発掘作業をして掘り起こした結果、他のものとは少し異なる輝きを持つものに対する気づきとも言えます。私は文献学ですが、ともすると読み流してしまいがちになりますが、他の文献を読んでいると「ん?」「もしかして」「何か変」などというところから、もう一度手にとってみると「間違いないかも」「当たりかも」という確証に変わってきます。(違う時もけっこうあります)不思議なもので、このような発見をすると誰かに聞いて欲しくなるのと同時に、逆に「聞かれてはまずい」という思いも生じ、隠したくなる気持ちも合わせて生じます。そしてドキドキしながら密かに自分の発見を検証し、他の誰も気づいていないかどうか確認して、それが
間違いないとわかったとき、子どもの時のようなうれしさがわいてきます。これを経験してしまうこの世界から離れられなくなってしまいます。気をつけておかねばならないことは、先に自分の結論を決めておいてから、文献を読んだり発掘調査をしてしまうと、その予断は明らかに眼を曇らせてしまいます。最初から「こんな発見をしたいな」と決めてかからないことが、むしろコツなのです。決めてかかってしまうと、自分が想定した発見しか得られません。決めてかからずに、真っ白な状態で見ると、自分でも考えていなかった発見に気づくことができるのです。一度、小さな発見をしてしまうと、勉強をしたくてしょうがなくなってきます。
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