大学院に進む意義
総理大臣がかわるそうです。最近、あまりにも忙しすぎて、現総理大臣が、自民党の総裁選に出ないということはネットニュースでふわっと見ていましたが、それが総理大臣の交代につながることとつながっていませんでした。どうでもよすぎるのかもしれませんが、自分の無関心ぶりに少し反省しています。現総理大臣は、悪夢の前総理大臣と比較した場合、比較的まともな人だったと思っています。学術会議の問題はいただけませんが、説明能力の欠如は致命的であったものの、携帯の値段を下げようとしたこと、無理矢理でもオリンピックの開催をぶれずに批判を全面的に受けながら強行したこと、ワクチン接種の道筋をつけたことは、反目する人は当然いるでしょうが、大仕事であったと思います。パフォーマンスと断腸の思いだけで、事実上何もせず、領土問題も、拉致問題も、経済も、外交もマイナスのことばかりした悪夢の前総理とは天と地ほどの差があると思います。今書店には「安い日本」系の本が増えていますが、つい読むと、本当にせつなくなります。この人のおかげで、誰がしてもまともに見えたのは、ある意味アドバンテージであったと言えますが、前総理のあまりにも多すぎる負の遺産に押しつぶされたように見えます。どんな仕事をしても批判はあります。だからこそぶれずに仕事をするのは大変なことです。その中でいくつかの大仕事を1年でしたのは確かだと思います。平時でまともな人の後継だったならもっと良い仕事ができたのではないかと思います。
次がどんな人がなるのかは知りませんが、前総理大臣のような悪夢を繰り返さないなら、どなたでも結構ですが、最低限、小学校で習うくらいのレベルで平然と嘘をつかない、小学生レベルの日本語は正しく使える、小学生レベルの知識と知性はある、無駄な攻撃性を持たない、差別をしない、犯罪をしない、証拠となる文書を改竄したり、抹消したりしない、このくらいはできる人が望ましいでしょう。最低限の教養を身につけていると言っていいでしょう。ボリスジョンソンのようにラテン語やギリシャ語の古典をひけらかすのも下品ですが、少なくとも今の日本の首相に、漢詩の達人がいるとも思えませんし、この国の歴史を重視している人がいるとも思えません。大臣の天皇に対する不遜な態度は、この国の歴史や文化に対する無知から来る挑戦に映りますし、前総理にいたっては、この種の教養など無意味だと考えている発言の多さには辟易します。よく政治禍が自分の言葉で話さないと批判されますが、自分の言葉で話すなら、古典からの引用などをさせてみると、簡単にその人の教養がわかるでしょう。大学を出ると一定の専門を修めるわけですが、日本の大学を出て、自分の分野のクラッシックから引用ができる若者にほとんど出会いません。私ならば仏教ということになりますが、引用ができると、それがある程度身体にしみこんでいるということでもあります。かつてのこの国の政治家は、仏教を引用してこの国の統治理念としました。今とは教養レベルが違いすぎます。
教養はとても漠然とした言葉で、つかみ所のないものです。だから、大方の意見としては、「あった方がいいもの」くらいではないかと思います。私の見解は、もちろん「なくてはならないもの」「生きるために必要不可欠なもの」です。大学というのは、おそらく生まれて初めて教養を習うことができるところだと思います。小学校と中学校は、親が子どもに教育を与える義務教育で、その趣旨は、受験戦争に勝つための戦力搭載ではなく、予測能力を養うことにあります。国語で文字と文章を覚えるのは、当然、日本語で情報を得るためのものです。これがないと予測ができません。算数や数学も同様で、計算ができないと、値段の予測もできません。分数がわからないと、ケーキを買っても人数分で割ることができません。音楽であっても、聞いたことのある音と、聞いたことのない音を学ぶことで、例えば、導入の部分だけで、どの曲かがわかるようになります。体育は身体の反応として、危険を予測する能力が身につきます。要するにどの教科も予測ができるようになることが想定されているのです。高校になると、いわゆる高等教育になり、ここからは、学問分野を学ぶための基礎を習います。大学になると、習うだけではなく、自分で問題を見つけて、形にすることをスキルとして身につけます。大学のもう一つ重要な役割は、アカデミックスキルを身につけるにあたって、その質を高めてくれる教養を提供することです。おそらく大学ほど教養を身につけられる機関はないのではないかと思います。
教養がなぜ必要不可欠かという理由は、あまりにもたくさんありすぎて、すべてをここで記すことはできませんが、私が考える最も重要な理由は、「教養が自分を守ってくれる」ということです。私の土台は仏教でできています。今も決して熱狂的信者ではありませんが、おそらく大学に入ったときは、オウム真理教がまだ全盛期だったころ、京都にはたくさんのオウムのパソコンショップがあったころでしたが、私は宗教に関して、「所詮金」「心の闇につけこんだビジネス」くらいの抽象的な言葉で語り、その他の部分を見ようとはしていなかったと思います。今思えば恥ずかしい話ですが、今、これを恥ずかしいと思える、そして、こんなコラムで自分の恥ずかしさを書けるようになった、ということも、少しは教養が身についたのではないかと思いたくなります。それはともかく、宗教をよく知ろうとすると、必ず歴史と背中合わせであることに気づきます。この国は、聖徳太子以降、仏教国になりますが、仏教国というのは、官僚システムに仏教が取り込まれ、国民に仏教的な生活をすすめていくものです。必然、仏教を中心した文化が生まれますし、仏教とそれ以前からある土着の思想と融合し、それがあたかも元々そうであったかのような理解がなされていき、それがこの国の思想を形成する際に利用されていきます。
この国は、祈りに支えられてきた国です。794年平安京になりますが、桓武天皇は奈良に仏教を置き去りにしたにも関わらず、空海、最澄という二大スーパースターを擁して、新たに仏教の祈りに支えられた都を作ります。おそらく、今では考えられないくらい複雑な儀礼や儀式があったでしょうが、それらには、長年の蓄積があり、すべて何らかの意味があったはずです。それらをよく知ろうともせず、効果が見えない、めんどくさい、意味がわからない=意味がないと歪めてしまい、故に祈りなど無意味であると断じ、それをやめてしまうということをこの国は選択しませんでした。現代も尚、この国は祈りに支えられています。
このようなことを、非科学的と考える人は多いかもしれません。しかし、決してそうではありません。仏教はそもそも科学的な宗教です。超がつくリアリズム宗教です。そんなこと言っては身も蓋もありません、といったリアリスティックな記述の宝庫でもあります。REBTは不健康でネガティブな感情をよくないものと見なします。もちろん、健康によくないのです。アレキシサイミアというものがありますが、「自分の内面的な感情の変化には鈍感だったり無関心であること」「行動を起こすことで、精神作業を回避している」「感情を言語化できない」などといった状態で、今はあまり言いませんが、昔は「失感情症」などと呼ばれていました。何らかの事情で、不健康な感情が知覚できなくなると、そのダメージは身体に来ます。感情は、防御装置でもあります。私たちの身体は痛みを感じることで、防御ができます。しかし、感情的痛みを感じなくなると、例えば、私の知る例ですが、最終的には胃に穴があくということもあり得ます。やっかいなのは、本人が気づかなくなってしまっているところです。アレキシサイミアは医学的な問題ですので、必ずしも日常生活と直結しない面もあるのですが、例えば、日本にもたくさん風習というものがあり、それを破ると、批判の目にさらされ、いたたまれなくなるということはあります。外部からやってきて、その批判の目に耐えきれなくなる人も少なくありません。うまくいく人は、自分からその風習に溶け込んでいく人です。イザベラバードの日本での旅行記が、今漫画になっていますが、彼女の旅行記を見ると、事前に旅をする予定になっている場所のリサーチをして、優秀な通訳を雇いつつ、現地の風習に体当たりで入っていく。それが結局自分の身を守る術になっているということです。彼女の教養は非常に高く、常識の違いに右往左往しながらも、日本人に対する差別心の強い同胞に批判的でもあります。当時、女性がパーティも組まず、単独で旅をするのは命がけだったと思います。それでも生き抜いて、すばらしい旅行記を書けたのは、ひとえに彼女の教養の深さだったのだろうと思います。
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