京都コムニタスにおけるスタッフの在り方
私はこう(?)見えて「ほめ上手」と意外にも言われます。ただし私自身にその自覚は皆無です。私は「ほめて伸ばす」タイプの教師ではないと認識しています。当然のことですが、ほめることを否定しているわけではありません。ほめることは大切なことだとは認識していますが、「ほめて伸ばせる」タイプの教師と、そうではない教師に分類できるとすれば、私は後者に当てはまると考えているということです。私の常に使っているフレーズは必要なことを必要な分だけ過不足なく、です。これに基づいたバランス感覚を最も大切にしています。ほめることも、そのカテゴリーにはまりますので、ほめる必要があれば、その分だけほめることは意識します。しかし、京都コムニタスで考えてみた場合、大人の塾ですので、私にほめられることを喜ぶ人はあまりいないのではないかと思います。また、それをモチベーションに勉強する人もほとんどいないと思います。
一般的に「ほめて伸ばす」ことは大事なことと考えられる傾向にあると思います。しかし、いくつかの問題もあります。まず、ほめる人が誰かという問題です。ほめて欲しくもない人にほめてもらっても、それほどの効果は期待できないでしょう。次に、効果を期待したり、予測してほめる人がいるとするならば、その人は、ほめても効果のない人だと思います。つまり、ほめることはどの程度、何に効果があるかということに関して、ほぼ都市伝説であり、エビデンスで証明する類の話ではないという問題。次に私個人のことを言えば、私は師匠にほめてもらった記憶がありません(なくなっているだけかもしれませんが)。何回か、「ご苦労さん」のようなねぎらいの言葉をいただきましたが、全部シチュエーションまで記憶しています。まぁ、それは、私がほめるに値しないと思われているだけのことかもしれませんが、あまり、ほめてもらうことを期待した記憶もありません。つまり、ほめる側とほめられる側の空気をどう一致させるかという問題。最後に「ほめる」という言葉の定義と範囲の問題。「ほめる」を漢字にすると「褒める」と「誉める」が出ますが、違いは大きいと思います。一般的に漠然と「ほめる」と認識しているのは「褒める」の方でしょう。どちらかというと、上から下に向けた目線です。「親が子に対して」という状況は、これに属します。一方「誉める」は、他動詞としてはあまり使わないと思います。これはどちらかという下から上への矢印になり、「誉れ」という意味が強いと言えます。「○○先生は、この郷土の誉れです」なんていう言い方で使いますが、あまり、「ほめて伸ばす」系統とは一致しないでしょう。また下からの矢印になるため、「評価」というニュアンスは少ないでしょう。目下が目上を評価するのは不適切と考えられます。
以上から、「褒めて伸ばす」という漢字が妥当ですが、結構上から目線です。では、私たちのような、大人の塾で、「褒めて伸ばす」が一切適合しないかというとそうでもありません。私がそのような教師であるかどうかは別にして、「正当な評価」をすることは常に心がけています。すごいことはすごいと言い、大したことないと思うと、何も言わない、ということはよくあります。大切なことは、「必要なことを必要な分だけ過不足なく」を常に意識することであり、過ぎない評価をしていくことです。加えてネガティブな評価は、少なくとも私がする必要がないということです。そうすると自然と、「ほめている」ように見えるのかもしれません。それで伸びてくれるのであれば、必ずしも意図をしているわけではありませんが、うれしい誤算ということになります。
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