四摂法
以前僧侶のインターネット宅配について記事を書きましたが、この記事によると、その流れは止まるどころか、進んでさえいるように思えます。ここで明らかになっているのは、僧侶も格差社会になっているということのようです。専業では食べていけないという話は、私自身もよく聞きますが、「格差」という観点は実はあまり持っていませんでした。おそらく、その界隈では、格差について訴える人が少ないからだと思います。あるいは、怖くて訴えられない可能性もあります。また、どこに訴えたらいいのかわからないという面もあると思います。
それにしても、この記事は生々しく、「現実」を突きつけていることは確かです。仏教界は真剣に議論しないといけないと思います。私が常に問題と感じることは、おそらく、二千年前からの課題だと思うのですが、仏教学会という学問専門集団と、実際の僧侶と、その周辺の一般人、および一般社会の距離が遠すぎるのです。仏教学会は、専門化が進みすぎて、一般人が学会発表の題目を見ても、暗号にしか見えないかも知れません。大したことではないことを大げさに言うこともやりやすく、一般人を驚かせるには威力抜群の題目もたくさんあります。仮に「ディーガニカーヤ、第七番、マハーパリニッバ-ナスッタンタにおける九次第定について」と思いつきですが、それっぽい題名をつけてみました。多分、業界人以外は、想像もつかないと思います。そして、一般人に一言で説明するのもなかなか難しいと思います。おそらく業界人はこれをみても「ふ~ん」くらいの題目です。しかし、学会活動をしていない僧侶ももちろんたくさんいるのですが、そういった僧侶が、これを見てどう感じるかが、一つ重要ポイントです。学会が一般人とかけ離れた議論をするのは、別にどこの学会でも同じことです。仏教学会の場合、そこに属さない僧侶の立ち位置が見えにくいのです。二千年くらい前から、似たような問題はあったようで、インドの僧侶の中でも、「森林住」や「僧坊(房)住」とよばれる人がいたようです。前者は、学問をするというよりは、身体を使った仏教活動をして、布教にも熱心な人が多かったようです。屋根の下に暮らすことをよしとしなかったらしく、日々自分をストイックに追い込んだ生活をしていた者も多かったようです。後者は屋根の下で、学問として、ブッダの教えを追求した理論家たちです。日々、経典、聖典研究に一生を費やして、著作活動に励んだようです。今に残る作品をたくさん残した論師もたくさんいます。
では、今のアマゾンを通して宅配される僧侶はというと、一体どれに属するのでしょうか?現代の学者として、マニアックな仏教学を追求するでもなく、かつての森林住のようにストイックになるでもなく、僧坊住のように自分の研究に生涯をかけるでもない。宅配される僧侶も、それを批判するお偉方も、格差という前に、自分の僧侶としての立ち位置を明確にすべできなのではないかと思うのです。現代の学会も、森林住も僧坊住も、現代でも存在します。しかし、「どれでもない」僧侶も多いのです。どれでもないのもいいとして、新しい境地、立ち位置を作ればいいと思います。鎌倉仏教の祖師たちは、この新しい立ち位置を確立した人たちばかりです。時代背景の説明をするとおもしろすぎて一年くらいかかりますので、省略しますが、この祖師たちが作ったと言っても、800年近くたっているわけで、新たな境地があってもいい時代に来ていると思います。「どれでもない」から脱却すべき時かと思います。
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