不可思議を考えてみる1
以前に無財の七施 というコラムを書きました。
こんなご時世だからこそ、こういった考え方は大切だと思います。
こんなご時世とは、超がつく格差社会です。
個人も、企業も、果ては大学も、皆「生き残り」を賭けて生きています。
でも「必死」です。
大学がどんどん肥大化していくのも「生き残り」のためです。
問題は生き残りの戦略です。生き残るために何をするかということが
重要なのですが、自分以外の他者を生き残れないようにする戦略が
主流をしめているように思えてなりません。
家電量販店が、一時どんどん店舗を増やして、競合し合った結果
勝者ゼロのようになってしまったように、他者を倒して、自分が生き残る
という戦略は、実は間違っていると考えられます。
現在、貯金に課税をするという案もありますが(確か戦後すぐにもあったような)、
こんなことをしても、いかに金を取られないようにするかのアイディアばかりが
出てきてしまい、結局いたちごっこで、そのうちうやむやになってしまいます。
仏教には布施(仏教だけではありませんが)という概念があります。
これは「分け与えること」であり、富裕者が、困窮者に分け与えることは
もとより、必ずしも富裕者でなくとも、金品に限らず、求められると
分け与えるという考え方がありました。
紀元前後ごろに発生した大乗仏教では、六波羅蜜の一つとして
菩薩という人(?)が行う実践徳目となりました。
波羅蜜とはコンプリートの意味ですので、「やりきる」くらいでしょうか。
布施波羅蜜と言えば、布施をやりきることと捉えて良いと思います。
大乗仏教発生の紀元前後ごろ、かの有名なガンダーラという地域で
大乗仏教は発展しました。ガンダーラは今も昔も民族混淆地域です。
混じり合うと同時に、いがみ合いもおこり、紛争がおこります。
併せて商業も貨幣経済も、新型の文化も生まれ、哲学、学術、教育も
生まれ、冨も、富裕者も生まれます。そうすると利権が生まれ、
併せてその奪い合いも生まれます。そして分裂と戦争も起きます。
しかし、それと同時に、反作用として、安寧への願いも生まれ、
それを祈る術を持った人も生まれます。
これらは当然無意味なことではなく、こういった願いや祈りがあるからこそ
人々は道を踏み外しきらずに今を生きているのだと思います。
こんな地域で仏像や菩薩像がたくさん生まれました。
その容貌は、極めて穏やかに描かれました。当時の人々の願いが
込められているのだと思います。こういった仏像を作るには費用がかかります。
技術的専門職人もいります。文献を読み解く知識をもった人もいります。
教育が必要です。おそらくギリシャの影響を受けていますので、
ギリシャ文化に詳しい人もいたはずです。
他にも無数に条件があって、奇跡とも言える現象が生まれたわけですが、
仏像などを作っても、今のように金銭的価値などあろうはずもありません。
そこには布施をして、財を分け与える考えが根付いており、こういった
専門技能をもった人を生み出すために力を尽くした人がいたはずなのです。
おそらくその人々は財をもった社会的成功者のはずです。
このコラムでも述べましたが、
ヴァイシャと呼ばれる商業を主に行っていた階級の人の名前がよく出てきます。
こういった人が、損も得もなく、利益などかえりみず、ただ純粋に願いを込めて、
それを布施として形にしたはずなのです。そして結果的に職人が育ち、それが
後世に引き継がれ、今があるのです。
こういった人がたくさん出て来ることが社会として理想だと思うのです。
競争は避けて通れません。しかし、競争して勝った人の、その後に注目するということも
あまりありません。自分だけが勝ち組になる、あるいは負け組になりたくない
その一心だけではなく、いずれにせよ、その後どうするのかが重要です。
負け組だと自分で思ったとしても布施はできます。
「できない」「できっこない」「やりたくない」「なんで自分がそんなことしないといけない」
「そんな余裕ない」「興味ない」
こんな言葉ばかり聞くよりも、黙って、求める人に条件をつけずに
何かを差し出してみることができたら、良い循環が生まれそうな気がします。
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