成功に学ばず失敗に学ぶ
日本人の幸福度は先進国で最下位という記事がありました。
私はそんなに悲観する話ではないと思っています。
別に幸せ感が強くないからといって、自分がとびぬけて不幸だと思っていないなら
大した問題ではないからです。幸福度を測る時は、別の時に
不幸度も測定して、両者の関係を考察する時期に来ていると思います。
この国の人は、全体的に見て、そんなに不幸度が高いようには思えません。
幸せはあやふやなものだから、不幸でなければ良いという考え方が根付いているとしたら、
幸福度が低いことがそんなに重要なことではないと考える方です。
これはREBTの健康でネガティブの考え方に通じるものです。
「幸せいっぱいで、不幸など全く感じない」のだとすれば、それはそれで何か危うさを
感じますし、それを目指すのも何かバランスの悪さを感じます。
私自身の今年の一つのテーマに「幸福」をあげています。
別に病んでいるわけではありませんが、認知の問題として何を幸せと感じるかは、
民族や国によってかなり異なると考えるようになったからです。
私はどうしても歴史学と切り離せない位置にいますので、いつも歴史的な
トピックには注目していますが、世界共通の歴史など、そもそもこの世に存在しませんし、
あってはならないものです。仮にそれを作ろうとする人間がいたとするならば、
明らかに政治的意図をもっており、もはや学問ではありません。
一方で、歴史と政治は常に離れずにくっついてきました。
この国が背負っている「歴史問題」はその典型です。
歴史はよくも悪くも人の感情に訴えやすい面を持っているのです。
これらの点は、よく考えてみると「幸福度」とよく似ているのではないかと考えています。
幸福は感情的な面ですし、世界共通の幸福など存在しませんし、誰かが幸福ならば、
誰かが不幸になるのは自明のことです。「勝つ人」がいるということは、すなわち「負ける人」が
いるからということです。歴史も常に勝者によって、勝者の都合の良いように描かれており、
勝者といえども諸行無常の法則からは逃れられませんので、そのうちにまた別の勝者に
塗り替えられていくために複雑系になるのです。
幸福も同様で、自分の幸福ばかり願いすぎると、他人の不幸を願わざるを得なくなります。
確かに経済成長をした国は幸福度が上がるということは予測できることですが、
それが維持できるかどうかは、国の問題ではなくて、個人の問題です。
経済経済と推し進めることで本当に人を幸福にしているのかと問われると
疑問符を付けざるを得ません。不安を覆い隠すことが幸福だとは思えません。
また、他人の不幸を願ったり、意図はなくとも他人を不幸に追いやっている人が
幸福になるとも思えません。
大量の兵器を作り、札束で人間を支配するシステムを作ってきた国の
幸福度が高いとするならば、あまりうらやましい話ではありませんし、それを
模倣することはあってはならないことです。
できるだけ多くの人が不幸にならないように知恵を絞る。
誰がどう見ても不幸な人に目を向け、手を差し向けられる。
国家というのはこれを目指せないでしょうから、個人レベルでそれを目指すのが
不幸にならないことを目標にした場合、妥当ではないかと思います。
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