暴力に教養で応える
議論が噛み合わない理由という記事を見ました。
非常に面白い内容でした。筆者は原発問題について議論が
噛み合わない理由を「時間軸」「規模」「確度」の三点に
まとめておられます。
こう言われてみると、まさにその通りだと思います。
思うに、原発問題は本来は国民的レベルの回答は
出ているのだと思います。大半は、筆者はが別のところで言う
「完全な脱原発は『北極星』のようなもの。その方向に向かって常に、
着実に歩いていきたい。ただし、今すぐ飛びつけるわけではない。」
ということだと思います。これは、原発について何の思惑も利権もない
人の素直な意見でしょう。私も意見を求められたなら、こんな
回答をすると思います。ではなぜ、「再稼働派」や「即時脱原発」
などという意見が出たり、時に優勢になるのかという問題が生じます。
実は誰も目に見える土俵で、対等な形で議論をしていないということです。
例えば仏教学で「大乗仏教はいつ発生したか?」という議論が生じた場合、
当然、疑問視whenに沿って議論が始まり、進んで行きます。その上で
「紀元前後頃」とか「実はもう少し古い」とか、はたまた
「何を持って大乗とするかの議論が確定しないと結論が出せない」
といった根源論なども出て、百花繚乱となるのが通常の議論です。
ところが、原発問題の不思議(奇妙奇天烈)な点は、実は誰も
疑問に思っていることを提示しないのです。そうすると突然
小泉元首相のように、
「即時脱原発、根拠はなし、その意見を都民が選ぶかどうか」
という議論する気ゼロの主張を絶叫するという、さらなる
エキセントリックが出てきます。
以前も信念とは、エコ活動?科学思考もどき
という記事で書きましたが、原発に関して、知識のない人間が
かみ合わない議論をすることほど、馬鹿馬鹿しい話はありません。
ところが、不思議と原発問題は、いろいろな人が知識ある人のように
話します。そして科学を語ります。
日本は、震災で大変な原発事故を起こしている事実は揺るぎません。
すべての議論の土台(土俵)はここです。事故がなければ、
脱原発なんて言うのは一部の活動家だけだったのです。
むしろクリーンエネルギーと言っていた事実を忘れてはなりません。
今こそ、利権の絡んでいない学者の出番です。
学者の冷静な議論こそが正しい方向に導いてくれるはずです。
方向転換するにも、正しい選択肢を提示してくれるはずです。
その方向性が見えるまで、無知な評論家もどきは口を慎むべきでは
ないのでしょうか。
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