青春の彷徨、新宿ゴールデン街―無頼に生きる、がテーマだったあの頃―Ⅰ
[知性を評価する際の問題]
「平均的な思考は捨てなさい」というタイトルのアメリカで執筆された本の書評に紹介されていたのは
「多くの人が、自分が「普通」でいられているか、「平均」からずれていないかをひどく気にするのが、今の社会だが、実は、平均的な人間は、ほとんど現実には存在しない。平均的な体形を計算で割り出しても、現実にはその体形の人をほとんど見つけることはできない・・・」
という事実です。
「平均」的であることを良しとする評価基準だけで行くとすると、様々な支障が生じます。
どのような「支障」が考えられるでしょうか。
例えば「平均」を取ることの典型といえるものに「偏差値」があります。
この基準で人を判断しようとしても、うまくいかないことの方が多かったのではないでしょうか。
これに振り回されてきたのが日本の教育現場であろうと思います。
というより、これによってすっかり国力を失ってしまったのが日本、と言っても過言ではないのではないか、と私など思うくらいです。
こういったことに関してこの書評では次のように述べられています。
―この点は知性を評価する際にも問題となる。
しばしば、あの人は頭が良いなどと表現し、ある分野の知性で優れている人はすべてにわたって優れていると考えがちだ。―
この「ある分野の知性」というのは、一人の人間について、その人の人生において子供の頃からしばしば当てはめられる判断基準の一つに「受験に強いか否か」ということが考えられます。
「受験」は、その人間の初期における「ある分野の知性」を代表するものと言っていいでしょう。
しかも、この世界は先述の「偏差値」によって大学のランク別にきれいに輪切りにされています。
つまり、上から順番に難関大学によるヒエラルキーが確立されているのです。
言うまでもなく、「受験に強いという知性」は、人生のごく初期のしかもかなり限られた範囲のものに過ぎません。
多様性に富んだ「知性」が示す世界のごく一部でしかないのです。
にもかかわらず、その基準が「すべてにわたって優れている・・」という大いなる誤解を生んでいます。
こういった極めて狭い価値基準が、広く世間の意識を支配してきたことになります。
勉強だけですべてが決まるわけでは・・・・
つづく