自閉症に対する無理解が引き起こした悲劇 「彼女の名はサビーヌ」
障害と人生を考えさせられる映画「マイ・ネーム・イズ・ハーン」の後半です。
(前半は昨日)
昨日、「マイネームイズハーン。私はテロリストではありません。」というフレーズをアメリカ大統領に伝えなければいけないと思い込むには「ある事情がある」のですが、それには彼がイスラム教徒であるということを抜きには考えられません。
この映画の描いている時は、アメリカで、あの9・11のテロが起きた時なのです。敬虔な(またアスペルガー障害の特有のこだわりの結果?)信心深いイスラム教徒である彼は、ただイスラム教徒であるというだけで迫害され、それだけが理由で愛する息子でありたった一人の親友であった息子を、偏見に染まった仲間にいじめられ殺されてしまうのです。
当時のアメリカ社会では(あるいは今でも)イスラム教徒=テロリストというレッテルが貼られていたのでしょう。その結果、息子を殺された妻のマンディラは彼に、
「顔もみたくない!もし家に戻りたいなら、アメリカ大統領に自分はテロリストではないことを伝えて、全ての国民に知ってもらいなさい!」と言い放ってしまいました。
その言葉を発した背景にあるマンディラの哀しみが十分理解できずに、彼はただ一途に「自分がテロリストではない」と言うことをアメリカ大統領に伝え、全国民に知ってもらわなければならないと思い込んだハーンが旅に出てさまざま人たちと出会い、いろいろな困難を乗り越えていくと言うストーリーでした。
映画の中でも、イスラム教徒だというだけで、他の人たちに差別される場面が描かれていました。
宗教とか国籍とか、あるいは障害名なども、いわばレッテルとして、それだけでその人物を決め付けてしまうことは確かにありますね。
具体的にその人と知ろうと思ったら、その人に近づいていくことからはじめなければいけないでしょう。
発達障害とかアスペルガーという単語だけで、決め付けるところも確かにあるような気がします。
実際は十人十色で、教科書に書いてある通りのステレオタイプの人間なんていないものですね。
イスラム教徒は怖い、とかアスベルガー障害は人の気持ちがわからない、とか簡単に決め付けてはいけないな、と反省しました。
ここ数年の発達障害・自閉症スペクトラムへの世間の注目度はかなりのものですが、勝手に一方的なステレオタイプが一人歩きしないか、と少し心配です。
彼は最後まで「マイネーム・イズ・ハーン」だといい続けます。
つまり自分は「アスペルガー症候群の男性」でも、「イスラム教徒の男性」でもなく、「テロリストの一人」でもなく、世界にただ一人の「ハーン」という名前の人間なんだ、と言うことを言いたかったのかもしれません。