マナーうんちく話494≪和顔愛語≫
美しいものを鑑賞することを「狩る」と表現しますが、先日近くの県立自然保護センターに、夫婦恒例行事の一つである紅葉狩りに、手作り弁当持参で行きました。
紅葉を形容する言葉は「錦」ですが、まさに赤、黄、橙に紅葉した色とりどりの葉は、花の好きな二人にとって、実に美しく感じられました。
またこの光景を華やかな着物に例えた先人の感性もすばらしいですね。
ちなみに紅葉といえば「鹿」で万葉集にも詠まれていますが、私が住んでいる地域では、鹿は農作物の天敵ですから、歌に詠まれているような、秋のもの悲しさは感じられません。
ところで皆さんのおうちでは「炬燵」を出されていますか。
陰暦10月の亥の日はこたつを出す日で、新暦では今頃になります。
昔は衣替えにせよ、炬燵にせよ、決められた日に一斉にしたようですが、炬燵を出す日は、武家階級と庶民は異なっていました。
武士の家では陰暦10月の最初の亥の日、庶民は第2亥の日です。
寒いのは武士も庶民も同じはずなのに、士農工商による差別で、武士は優遇されていたのだと思います。
江戸時代は着るものも、苗字も、刀も、教育も色々な面で差別はありましたが、今でいう上流階級と似ていますね。
ただ昔の武士は、いざ事が起こると自ら先頭に立ち、凛とした振る舞いをして、責任の取り方も実に潔く、ここが日本の今と異なるきがします。
また自己主張が強い割には、せこい人が多いようにも感じます。
立冬から2週間が経過してさらに寒くなると、雪がちらつく様になります。
冬支度に追われるようになるわけですね。
紅葉狩りに行ったときに、紅葉が始まったつつじの木に花が咲いていました。
「返り花」「狂い咲き」などといい、この時期の季語です。
いろいろな意味がありますが、身受けされた遊女が、何かの都合で、再度遊郭で働くようになる意味もあります。
昔から日本人女性は、いい意味で「撫子」「芍薬」「牡丹」「百合」の花にたとえられてきましたが、このようなたとえは、何となくもの悲しい気がしますが、いかかでしょうか・・・。
11月22日は二十四節気の一つ「小雪」ですが、すでに初冠雪の便りも届いていますね。
これからまた一段と冬が近くなって、所によっては小雪がちらつくようになりますが「風花」といいます。
空気が乾き乾燥注意報が度々発令されるようになり、私が住んでいる地域では、消防車が頻繁に火の用心を呼び掛けています。
農作業時の野焼きが燃え広がることがよくあるからです。
また三寒四温の時期ですが、最近は温暖化の影響でしょうか、季節の移ろいに繊細さが感じられません。加えて規則正しさが無くなった気がします。
そして街中で、イルミネーションが夜空を華やかに照らす季節でもあります。
紅葉は自然が醸し出す大パノラマですが、人口のイルミネーションには人の温かさやぬくもりが感じられます。
デジタル化が進行するにつれ、何もかも味気なくなる中、このあたたかさは貴重な存在ではないでしょうか。
悲しみに沈んでいるときの周囲の温かさは身に沁みますが、木枯らしの吹き抜ける寒い夜のホッとする温かさも実にいいものですね。
イルミネーションを見るたびに「情けは人のためにならず」の言葉を思い出します。
木枯らしが吹き、冷え込みが強くなるにつれ火の温かさがうれしくなり、暖房に頼りがちな生活になってしまいましたが、季節の移ろいに上手に折り合いを付けながら、自分流の冬の訪れを味わうのもお勧めです。
そして11月22日は「いい夫婦の日」ですね。
俵万智さんの短歌に「寒いねと話しかければ 寒いねと答える人の いるあたたかさ」がありますが、ここの「あたたかさ」とは人の心の温かさでしょう。
伴侶にせよ、友人にせよ、仲間にせよ、身近にいる人の存在は心を温めてくれます。
寒くなったら身近な人との人間関係を再確認してください。
金持ちもいいかもしれませんが「友持ち」もいいものです。
紅葉狩りから帰った後、収穫を寿ぐ意味も込め、知人から頂いた小豆で作った熱々の手作りのゼンザイをいただきました。
身も心もほっこりしました。