基礎から指南!接客・接遇マナー14≪相手の話を「聴く力」≫
今回は堅苦しいお話はさて置き、日本の「身嗜み」に関する雑学について触れてみます。日本人が、いかに、身嗜みに関して律義で有ったかと言う事をご理解頂ければ嬉しいです。
日本は四季が明確に分れているので、衣服もその四季に応じて決められていました。つまり「衣替え」と言う風習で、平安貴族に端を発します。
当時の貴族は夏と冬に衣服を変えていたようですが、江戸時代に入ると幕府は年4回衣替えの日を定めたそうです。
4月1日には綿入れを脱いで袷を着るようになり、5月5日には袷から単衣になり、9月1日には再び合わせに戻り、さらに綿入れになるといった具合です。
お金持ちは良いですが、裕福でない人は不要になった着物を質に入れたり、縫い返しをしたりで大変だったようです。
でもそれが、社会の決め事で、我儘は通用しない時代だったわけで、今でも着物の世界では厳格な決まりが生きています。
そして明治になると、衣替えは今のように10月と6月になり、公務員や学生に広がり、やがて一般人まで浸透するようになりました。
また、日本は明治維新を迎えるまで「身分制度」が存在していたため、衣服はその身分により、まちまちの国だったわけですね。例えば、公家と武家と町人と百姓では身なりが大きく異なります。
身分の差は、衣食住において大きな差が有り、中でも衣服の差は見るからにわかります。
そして、概して、身分が高い人ほど、多くの衣服をまとう傾向が有ります。
この傾向はどこの国でも同じで、例えば日本の貴族の女性は12単衣と言う絢爛豪華な服ですが、百姓は薄すっぺらの衣服を余儀なくされています。
エジプトでも、王侯貴族は豪華な貴金属を身に付けた立派な衣装をまといますが、ピラミッドを作った奴隷は、腰に布を蒔いただけの衣服ですね。
この理屈を、是非理解して、応用して下さい。
つまり、超クールビズとはいえ、何か大事な時、例えば大事な商談やプレゼンテーションの時、あるいは面接やお見合い等の時には、暑くても上着着用をお勧めします。交渉が有利に展開するための心理作戦です。
勿論、決まりが有ればそれに従って下さいね。
と言うことで、身分により、それぞれ個性の有るバラバラの衣服が明治まで続きますが、明治維新と共に、日本人の身だしなみは大きな変化を迎えます。
明治維新後に、日本は西洋文化を輸入するために、欧米諸国に使節団を派遣します。明治4年、当時の外務卿であった岩倉具視を団長に、木戸孝義、大久保利通らの使節団が欧米諸国を訪ねるわけですが、彼らは大いにカルチャーショックを受けます。
鉄道等の工業技術、チョコレートのように大量生産される食料品等などに圧倒されますが、身嗜みもしかりです。
鎖国政策のため、いかに井の中の蛙であったかと言うことで、見る物、聴くもの、食べる物、全てが驚きの連続だったようですね。
中でも、衣服は、岩倉具視は和装の髪型で、和服姿で訪れたそうですが、その姿は、現地の人にはとても好奇心で見られ、帰国後、早速、「洋服」を公務における身嗜みに採用した経緯が伺われます。
例えば、軍服を始め、警察や鉄道員、教員の制服に洋服を採用、さらに鹿鳴館と呼ばれたハイクラスの人の社交場でも、洋服姿が一躍脚光を浴びるようになります。
井の中から、初めて大海に出て、欧米諸国と友好を交えるに当たり、身嗜みまで歩調を合わせ、当時の先進諸国に追従する必要が有ったわけです。
挨拶に「握手」を採用したのも、この頃だと感じられます。
それにしてもその当時の政治家は、いち早く欧米型の身嗜みの必要性を察し、それを即座に実行した行動力は素晴らしいですね。
相当、気合が入っていたのでしょうね。