マナーうんちく話569≪泥より出でて、泥に染まらず≫
緑のそよ風を受けて、鯉のぼりが空を泳ぐ姿は本当に微笑ましいですね。
前回「こどもの日」をひらが名で表示する理由について述べましたが、もともと日本では、こどもは7歳までは神様からの「授かり物」とされていました。
だから「こども」は、神様に「供える」と言う意味の「供」を使用し、「子供」と表記していたようですが、「供」は「とも」であり、「大人の手下」になるのでよくないと言う理由で、今では「子ども」と言う表記が一般的になりました。
子どもに対する思いも、時代が変わればいろいろありますが、「753」の行事などは、まさに子どもは神様の子とされていたから、生まれたと思います。
ところで、日本には五節句、つまり1月7日の「人日(じんじつ)の節句」(七草)、3月3日の「上巳(じょうし)の節句」(桃)、5月5日の「端午(たんご)の節句」(菖蒲)、7月7日の「七夕」、9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」(菊)があり、そのうち5月5日の「端午の節句」だけが、1948年に祝日法により「こどもの日」として祝日になりました。
3月3日の「上巳の節句」、すなわち「桃の節句」であるお雛様は、各地で盛大にイベントが執り行われますが、祝日にはなっておりません。
その理由は色々あるようですが、ここではさておき、「桃の節句」に菱餅や白酒や桃の花をお供えし、雛人形を飾るように、「端午の節句」には柏餅やちまきを食べ、鯉のぼりを飾ります。
前回に引き続き今回は、その鯉のぼりに託す、「親の子どもに対する強い思い」に触れてみます。
鯉のぼりは、中国の「鯉」は「竜」になるという「登竜門」の故事に由来していますが、「鯉」は清流でも沼でも池でも、どんなところでも生きていける非常に強い魚ですから、子どもの「立身出世」の象徴として江戸時代から、町人の間で鯉のぼりを飾るようになったそうです。
江戸時代には、7歳以下の男の子のいる武士の家では、端午の節句が来ると、「のぼり」や「吹き流し」を立てていました。
のぼりや吹き流しもさることながら、「棒」にも価値が有り、田の神が依り付くとされていたようです。
また、江戸時代は身分制度が確立されていた時代で、武士と町人では様々な違いが有ります。「刀を差す」ことや「名字を名乗る」ことは武士には出来ても、町人にはできません。端午の節句に「のぼり」や「吹き流し」を立てることもしかりです。
子を思う心は武家も町人も同じです。
そこで町人衆はどうしたか?というと、「のぼり」や「吹き流し」の変わりに、出世魚として縁起の良い「鯉のぼり」をたてたわけです。
この発想は実にすばらしいですね。
このコラムでも多彩な「江戸しぐさ」に触れておりますが、町人衆の発想は実に豊かだと感心します。
そして、その鯉のぼりが評判になり、今度はそれを武士が真似をして、明治になって、吹き流しと鯉のぼりが立てられるようになったと言う説が有力です。
鯉のぼりの立て方は一般的には、竿の先に「回転球」と「矢車」、その下に「吹き流し」、「真鯉(まごい)」、「緋鯉(ひごい)」の順になります。
ちなみに、「真鯉」は黒っぽい鯉で、「緋鯉」は赤や赤黄色の鯉です。
明治の始めはこれらの鯉だけだったのが、昭和になり「家族的」と言う意味を込めて「青色の子どもの鯉」が加味され、現在に至るようです。
いずれにせよ、豊かで平和で、親が子を思う気持ちの表れが鯉のぼりです。
いつまでも残しておきたいものです。
何百年も続いている日本のしきたりや伝統行事には、先人が考え出した合理的な理由が必ず存在します。
不必要にコマーシャルに左右されるのではなく、その理由を正しく理解し、大人から子どもに伝えて行きたいものですね。