理不尽な面接質問事例-臨床心理士指定大学院
とある出版社の社長が、
「圧倒的努力は必ず報われます。報われないのはそれが圧倒的努力ではないからです」
と仰ったのだとか。この出版社からは、よく封書をいただき、本を出版するようにお声かけいただきます。ただ、一度お断りしたことがあると記憶するのですが。
私たちは研究を生業に生きる者ですから、まず研究、研究者という目線でものを見るように身体ができあがっています。その観点から大学院受験や編入受験を手がけています。研究者の基本的な仕事は、勉強をすることではなくて、「事実を前提とした情報提供」です。そのための調査及び調査結果を読み解くための特殊能力は自分で、「圧倒的努力」をして身につける必要があります。それだけ努力をして、事実を描き出すことが重要な仕事になるわけです。
その場合、「報われる」とはどのようなことを意味するのかは、非常に難しい問題です。ただ確実なことは、売れたかどうかではありません。もちろん、研究者ではなく、例えばトレーダーなどはお金が儲かればそれは努力が報われたことになるのかもしれませんが、私は、そのあたりは全くの門外漢ですので、全くわかりません。
「努力」→「報い」につながることを否定しません。古代インドでは「カルマ(業;行為のこと)」には報いがあることは常識でした。良い行為には良い報いが、悪い行為には悪い報いがあるのは、現代社会にも当然のごとく受け止められています。よく業報、果報、こんな言葉にこの考え方は保存されていると言えます。仏教は、これにもう少しアレンジを加え、努力の仕方について思考を巡らせます。努力も、すればいいというものではありませんでした。「正しい」という概念が重要で、正しいものの見方、正しい思考、正しい言語活動、正しい行動、正しい生活、正しい努力、こんなことが注目されます。決して圧倒的努力などとは言いません。
だから
「圧倒的努力とは?とよく聞かれる。人のやらない努力をする。ただそれだけ」
などとも仰ったそうですが、私は同意しませんし、スタッフにこんな抽象的な指示は出しません。かりに出したら、スタッフの身を護ることができません。トップはスタッフの身を護るために、「圧倒的な努力」をしなければなりません。
要は、その人が努力に対する「報い」を何と考えているかが重要なのです。これは各人の考え方に帰すれば良いのです。私は努力も報いも、できることから積み重ねていくことだと考えています。自分に嘘をつかず努力を積み重ねていれば、その瞬間、願った結果につながらなくても、「目に見えない部分で何かが積み重なっている」と考えておくことは、自己防衛にもなります。「何をやっても結果が出ない。それは結局努力が足りないからだ」と考えるのは、間違っているとは言い切れません。証明できないからです。しかし、確実に自分や周囲を疲弊させます。目標が不明確だからです。これを他人に言われるとより負担が大きくなります。
努力が報われたと考える考え方は無数にあります。決して「お金が儲かった」だけではありません。これは価値観の一つにすぎません。かりに、この価値観に出版社が取り憑かれると、「売れたら、何でも誰でもいい」という考えになってしまい、政治にすり寄ってお墨付きをもらっている作家であるならば、コピペの本でもいい、となってしまい。それでも売れてしまったことによって、品質についての「圧倒的努力」を忘れてしまうならば、これぞ本末転倒ということになります。
仏教は縁起という考え方を基本思想に持ちますが、結果というのは、決して一方向の結実体ではありません。 縁起とは、無数の条件が少しずつ作用したり、しなかったりすることを言います。この場合、対象を定めないとつかみ所がありませんので、まず仮に対象を「私の合格の結果」と定めます。自分が合格できた場合、当然努力をするわけですが、例えば、英単語帳1冊だけを勉強して、それで合格できるわけではないでしょう。私たちは大学院受験を手がけるわけですが、合格できた場合、抽象的な努力だけではなく、使った教材、出会った先生、友人の声かけ、たまたま読んだ長文、先生からもらった教材、オープンキャンパスで高めたモチベーションなどなど、言い出したらきりがないくらい、無数に条件があります。それらがうまくかみあって、結果の一つに、後から見ればつながっているのです。それには普段からの生活、心がけ、このようなものも必要です。よく高校スポーツの強豪校などで、ゴミ拾いやボランティアなどをさせているところがありますが、決して、精神論だけのものではないのです。一つひとつの積み重ねの結実なのです。それでも望んだ結果につながらないことはありますし、実は、圧倒的多数の人が、思った通りの結果は出ません。かりに私がこの年齢で、長距離選手に復帰して、東京の次のオリンピックを目指したとして、「圧倒的努力」をしたとしても、死んでしまうか、頑張り切れても、オリンピックには全く届かないでしょう。これについてはやってみないとわからないという話ではありません。やらずともわかります。しかし、意味がないかといわれると、それはその人次第でしょう。私は他にたくさんやることがあるので、オリンピックを目指すというのは、荒唐無稽すぎるので着手はしませんが。
圧倒的な努力をするということ自体は否定しません。しかし、努力という漠然とした言葉に酔っ払うのではなく、具体的に、何を目標にして、いつ、どこで、どの程度、何をするか、これら全てが努力です。具体的に考えれば考えるほど、結果に報われるとは限らないことがわかります。言い方を変えれば、他人にアピールするする結果など、目に見える数字等、ある程度分かりやすい範囲で、都合の良いものだけをあげれば良いのです。それを自慢し、我褒めにして、武勇伝として語りたい人は多いのでしょう。もちろん、それは幻想であり、実体はありません。その結果は、人生という長く大きい枠での結果にはあまり重要ではないということは間違いありません。
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