非行が抱える発達の課題-振り返り

井上博文

井上博文

テーマ:各種情報

2月19日の講演会の振り返りをしたいと思います。
この問題は非常に難しい問題で、言葉の使い方にもかなり気を配らないと、
余計に真意が伝わらないことがあります。石附先生はそのような問題を
わかりやすく丁寧に講演してくださいました。できるだけ、それを損ねないように
要旨をお伝えしたいと思います。

まず、最初に注意点が提起されました。それは簡単に「発達障害」という
言葉を使わないことです。障害という言葉は、我々の目線から見た言葉であって、
それを使う我々は、その言葉が一人歩きしないように気をつける必要があるのです。
ただし、やはり、発達障害とされる人々は、この社会で生きていく上で生きにくさを
感じていることは確かです。そして、この現代社会の複雑なシステムはどんな人間にも
生活しにくい方向に向かっていると思われます。そして「現代を生きる少年の心性」
として「自己評価が低い」「自信喪失」「自己価値観の低下」があるということでした。
そして日本人は「私は自分に大体満足している」yes回答 
アメリカ53,5%、中国24,3% 日本9,4%
「私は他の人に劣らず価値ある人間である」yes回答 
アメリカ51,8% 中国49,3% 日本9,4%

という数字が示されました。これは極端に低いと思います。
そして現代社会の子どもは能力至上主義で大器晩成が通じず、多くの子どもは競争から洩れ、
自己中心的な状況に逃げ込むという傾向の指摘もありました。ただ、決して競争について
否定されたわけではなく、様々な競争があって然るべきなのにも関わらず、競争と言えば
学力の競争に特化しているところに問題があるということでした。
これは私が思うに親の考え方に依る部分が大きいでしょう。私が京都コムニタスを
立ち上げたきっかけは、
「勉強するのははいつからでも遅くない」
「「良い」大学に行きたければいつからでも行ける」
という考えもありました。しかし、親の多くは、
「18歳で良い大学に入らねばならない」という強い思い込みはまだ根強くあるようです。
私もたまに問い合わせでそのような質問を受けることはありますが、この世代の
子どもさんを抱える親の方には私の考えはなかなか受け入れてもらえない場合が
多いと思います。しかし、いわゆる一流大学に18歳で現役合格したとしても優れているのは
その時までのことで、合格は決してその後を担保してくれるものではないのです。
結局大学生活で何をするかが大事なわけで、入って出ることが大事な時代ではないのです。
そろそろ考え方を変える必要があると思います。

ここまでは、現代社会に生きる子どもの問題でした。
そして、講演はここから非行の問題に移ります。非行臨床は石附先生のご専門とされる分野です。
非行という言葉は二十歳未満に適用されます。最近の非行の特徴として、
「突発型の増加」「脱集団化傾向」「「絆」の喪失」「群れない」「組織できない」
このようなことが指摘されました。そして、
「結果としての凶悪化」「経験不足」「自己制御力や想像力、シュミレーションする力の低下」
につながっていくということでした。
確かに言われてみればその通りで、私たちが子どもの時に比べて、善悪問わず「組織」が
減ったと思います。私がいた中学には本当か嘘か知りませんでしたが自称「番長」がいました。
一応組織らしきものがあったらしいということは記憶しています。
しかし、いずれにしても子どものうちから何らかの組織に属し、徐々に社会生活を学び、
その過程でけんかもすれば、良いことも悪いこともし、連帯責任をおうことも覚えていくのが
通常でした。しかし、今はそのようなプロセスを経ずに成人になることが増えてしまっている
ということでした。これは明らかに大人に問題があるのでしょう。押さえすぎると、
結局結果として加減や善悪判断が身につかず、本人の気付かざるところで非行になってしまう
という環境ができてしまっている可能性があります。
それでは、その意味での非行が生じる環境下で、発達障害のある子どもはどのように育っていく
のかという問題があります。それより先に我々が発達障害についてどのように捉えるべきであるか、
その点についての指摘がなされました。

発達障害とは、精神遅滞をはじめ学習障害、注意欠陥多動性障害を含む大きな概念であると
定義されました。人は誰でもなんらかの偏りがあるもので、この偏りが多様なあり方を
可能にします。しかし、
「こだわりや刺激への敏感な反応は発達障害とされ、社会の制度に収まらないあり方が認められない」
という指摘がなされ、社会の有り様も重要だとの指摘がありました。その上で
「発達障害は人が自分のなかにある部分に有する生来的な「発達の偏り」である」
と再度規定されました。
そして問題は
①発達障害という病気があるように捉えること
②発達障害に関する援助者が「関係性」と「発達」の理解不足。
支援によって自分のなかにある発達の傾向や偏りをうまく織り交ぜて
「自分」をつくることが生きることである。長期的な視点が必要。
③発達障害と診断されて障害のみに目を向けること。
生き難さを抱える人々の傷つきや痛み、悲しみ、孤独感、絶望という気持ちへ
の細やかな心遣いが心理的援助の原点
と、指摘され、「発達障害が非行犯罪と必ずむすびつくわけではない」と述べられました。

結局、発達障害と犯罪を短絡的に結びつけてしまうのは、社会や、そこに属する
我々の偏りに他ならないのかもしれません。この講演を聞かせていただいて、
つくづく感じたのは、発達障害であろうとなかろうと、人との出会いは、人生の中で
非常に大きなウエイトを占めるということです。
仮に同じ医師から同じ発達障害という診断を受けたとしても、出会う人によって、
その部分を「特徴」と捉えられて肯定されるか「欠点」と捉えられて否定されるかで、
その人の人生が変わる可能性が高いと思いました。他者次第という言い方は
語弊があるかもしれませんが、私たちがその他者になる場合はよく考えた上での
関わりが必要なのだと思います。

発達障害と一口に言っても実は非常に多くの種類があります。それらの一つずつを
丁寧に説明いただきました。このような発達障害者に対して支援をしようとする法律が
発達障害者支援法(2004年4月施行)です。これは、「知的障害者支援法を補うもの、
対象は自閉症のうち知的障害を伴わないもの、アスペルガー症候群、学習障害、
注意欠陥多動性障害などこれまでに基本的に障害者福祉の枠組みからはずれていたもの。
知的障害者については「知的障害者福祉法」などの法律がすでに制定されているから
除外されている、精神遅滞と発達障害との関係にはこの経緯を理解する必要がある」。
以上のような解説がありました。
その上で、発達障害と非行の関係について、慎重な説明をつけていただきました。
そして最後に、子どもの自尊感情を妥当に育てていくことが発達支援の重大な
目標であり二次障害を予防することにつながる。
という重要な指摘をいただきました。
質問タイムの時には、東日本大震災の被災地での臨床心理士の活動について
お話いただきました。今、国家資格問題が動き出していますが、
今回お話いただいた発達障害に対する支援に対するニーズは非常に多いそうです。
やはり変化に対しての適応が困難な子どもが多いのは否めないのですが、これから
復興をするにあたり、それはそれでまた大きな変化になります。発達障害に限らず、
子どもにとって負担が増えることは確かです。このような場において、臨床心理士の
専門性が改めて求められているのです。


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井上博文
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井上博文(塾講師)

株式会社コムニタス

塾長以下、スタッフが、全ての生徒の状態を正確に把握している。生徒をよく観察し、成長度合、どのような不安や悩みを抱えているか、をしっかりと観察し、スタッフ間で情報共有をしている。

井上博文プロは京都新聞が厳正なる審査をした登録専門家です

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