笑いのツボっていろいろだよね―ジェネレーションによって違う「何が可笑しいのか・・・」―Ⅰ
今日の目次
・え!?かなりの違和感・・
・「良い子たち」なんだなあ
・希少かつ立派な「偉人たち」が対象
・情報収集力が格段に進んできたために・・
・まあ、カミさんだけは、ね
・人間は、欠点だらけだから面白い
え!?かなりの違和感・・
いつだったか近年の話ではありますが、何かのアンケートで「あなたの尊敬する人は誰ですか?」という質問に対して「両親」という答えが一番多かった、という記事を見ました。これに私は、相当な違和感を覚えたことを覚えています。
こんなことを書くと「じゃあお前は自分の両親を尊敬していないのか?」と、まるで親不孝者みたいに非難されそうですが、そんなことはありません。私も親には充分感謝しているつもりです。(ま、孝行息子とも言えませんが・・・)
中学から私立に行かしてくれましたし、その後大学浪人時代も面倒を見てもらいました。おまけに結構いい歳をしてから入学し直した大学院での学業に際しても、資金面で援助してくれました。親にある程度の経済力や理解がなければとてもこうはいかなかったでしょう。
「良い子たち」なんだなあ
しかしながら、「尊敬する人は?」という質問をされて、私が「両親」と答えることはまずありえません。随分世話になったとはいえ、「尊敬」という言葉の対象にはならないのです。
何故でしょうか。それは、私の両親が「普通の人」だったからにほかなりません。
私の両親の場合、いいところもあれば欠点もまたそれなりといった、世間によくいるタイプの人たちでした。世の中の大抵の親もそうではないかと思います。それでも「尊敬の対象」となっているというのが、私には不思議な気がするのです。
「尊敬する人」を「両親」と答える今の若い人たちは、随分「良い子たち」なんだなあ、と思います。これは皮肉や当てこすりでも何でもなく、彼らは本当にそんな若者なんだろう、と思うのです。
翻って、私の世代はどうだろうか?と考えてみました。学生運動全盛時代(団塊の世代でもあります)の少し後に生まれた私たちは、親を含む古い世代の体制や価値観を徹底的に否定してきた、と言う記憶があります。
私たちに近い年齢の人で、「尊敬する人」を何の躊躇もなく「親」と答える人は少ないのではないでしょうか。とはいえ、他人(ひと)のことはよくわからないので何とも言えませんが。
希少かつ立派な「偉人たち」が対象
とにかく私は、先述したように、尊敬する人=両親ではありません。このことを少し突っ込んで考えてみました。
その要因の一つは、「尊敬」という言葉への解釈、ということがあるような気がします。どういうことでしょうか。
「尊敬する人は?」と聞かれて私の世代は、野口英世とかシュバイツァーとか答える人が多いものでした。彼らは自らの命や人生を犠牲にして、人類に貢献した偉人として教えられました。
昔は、今みたいにいろんな情報が溢れていませんでしたし、それを取る方法も限られていました。そんな世の中だったので、希少でありかつ立派な「偉人たち」に対して、割と無条件に尊敬のまなざしが注がれていたのです。
つまり、尊敬の対象は両親のような身近な人ではなく、かなり偉い人、遠い存在といった印象が強かったような気がします。そこにおける評価の基準には才能、才覚だけではなく、人柄、人格も立派である、ということも含まれていたのではないでしょうか。
情報収集力が格段に進んできたために・・
この「尊敬」という言葉の持つ重みが変化してきたのは、世の中が進化することによって、その解釈が変わってきたせいかも知れません。その典型的な現象の一つとして、一般人の情報収集能力が、格段に進んできたことが考えられます。
例えば、先ほど取り上げた野口英世は、立派な医学的功績をあげたとされながらも、私生活においてはかなり破天荒な人だったようで、金銭や女性関係などでいけば、尊敬どころか呆れるような一面もあったと言われています。そんなレアな情報も、取ろうと思えば取れる世の中になってきたのです。
そこで、例えば現代のスーパースターである、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズやイーロン・マスクなどを振り返ってみたらどうでしょうか。いずれも、ものすごい才人ではありますが、人格的に尊敬に値するのか、といえばかなりの疑問符がつきます。スティーブ・ジョブズなど、相当な変人だったとも言われています。
つまり、情報の量と質が膨大なものになり細分化された結果、そう簡単に「尊敬します。」とは言いにくい世の中になったような気がするのです。その代わり、先述のスーパースターたちは、羨望のまと、憧れの対象、といったやや現実路線に近い存在になったのではないでしょうか。
まあ、カミさんだけは、ね
私が、子供の頃想定していた、やや重たい意味としての「尊敬する人」という考え方は、今や存在していないのかも知れません。そこで、もっと身近な意味での「まあ、割と尊敬とかしちゃってます」的な存在として「両親」というのが浮上してきたのではないか、というのが私の見解です。
そこには、私たち世代が持っていた親世代に対する強烈な反発心、といったものはもうないのでしょう。また、そんなものを必要としない世の中になったのだろうと思います。
さてここで、さらに現実的に的(まと)を絞って、自らを振り返ってみました。じゃあ、私の子供たちが私のことを「尊敬」の対象としてみるか、といえばさすがにそれはないだろうな、と思います。
ただ「両親」というのはあり得なくても、カミさんだけが尊敬されている可能性はあります。なんといっても極めて真面目な性格で、まっすぐに子供達と向き合ってきていますし、子育てにおいても手を抜いたことはありませんでした。
その点、私といえば、かなりテキトーに生きてきた上に子供たちのお手本になるようなところなど微塵も見せていませんしやってもいません。そもそも「俺のことなんか、間違っても尊敬とかするなよ。尊敬するんだったらもっと偉い人にしろ。」と、言うでしょう。
人間は、欠点だらけだから面白い
しかし、「人間」という存在をよくよくウォッチングしてみたときに、人格的にものすごく立派で欠点のない人なんてそんなにいるのかなあ、とも思います。『ああいう人になりたい。』というのが尊敬の定義の一つだとすれば、全面的手放しにそう思える人はめったにいないのではないでしょうか。
話はちょっと逸れますが、私は高倉健が大好きです。あの男気溢れる佇まいには、文句なしに憧れます。
しかし、彼のようになりたいとは思いません。(なれるわけないじゃないか、という指摘は脇に置いといて・・)というのは、あんなストイックな生き方をしていたら、きっと息が詰まっちゃうだろうな、と思うからです。完璧に近い男というのも、無条件に尊敬の対象としては当てはめにくいものです。
逆に人間というのは、欠点だらけだから面白いとも思っています。その欠点も、場合によっては「あいつのああいうところが、憎めなくて好きなんだよなぁ~」となるのではないでしょうか。
いろいろ理屈を述べてきましたが、現代社会において、ストレートに「尊敬する人は?」と質問すること自体、ちょっと答えるのが難しいというか、その問いそのものが時代に合わないんじゃないか、あんまり意味ないんじゃないか、と思っているのです。
尊敬されて・・・・ません、おそらく。