青春の彷徨、新宿ゴールデン街―無頼に生きる、がテーマだったあの頃―Ⅰ
先日、羽田空港の靴磨きショップの店員のことを書いた。彼は靴磨きのプロ(おそらくですが・・)であると同時に接客業であるにもかかわらず、あまりの愛想の無さに、少しだけではあるが私の怒りを買ってしまった。
あの一件は、その後も私にいろんなことを考えさせた。その感想というか、まあ難しく言えば考察のようなものを蛇足とは思ったものの、ちょっと書いてみたいと思う。
さて、この件をどう考えたかというと、大きく2点に分かれる。
一つは彼の私への態度である。もちろん、今回そのことで彼とのやり取りがあったわけで、この話のメインテーマになるのだが、ことはそう単純ではないような気がする。
私は彼の極めて無愛想な態度に、かなりの不快感を覚えた。しかし、だからといって私の中に起こった怒りのようなものは、彼個人に向けられただけではないということである。今、もし彼のような若者が増えているとすれば、それはある意味社会的な摩擦のようなものをあちこちで産んでいることだろう。
軽い挨拶や笑顔といったものは、人間同士のコミュニケーションにおいて、ちょっとした潤滑油のようなものである。何も客に対してこびへつらう必要などないが、こちらが提供する商材やサービスに一定の対価を払ってくれる顧客という存在に対しては、最低限のリスペクトはあるべきだろうと思う。
というのは、ビジネスというものは、そもそもその「顧客による対価の支払い」がなければ始まらないからである。まあこんなこ難しい言い方をする必要もない話だ。要するに様々な選択肢の中から、「私」を選んでくれたのであれば、それなりの例は尽くすべきだと思うのだ。
お互いそこの了解がなければ、ビジネスの世界は円滑に回っていかないだろう。だから、多少非礼とも取れるような彼の態度に、自らを振り返って「俺は大丈夫だろうか?うちの社員たちはちゃんとやっているだろうか?」という思いも合わさって、いろいろと考えさせられたのである。
今回「靴磨き」という私の極めて個人的な日常事の中から、「仕事」というものに関する重要な約束事について改めて考えさせられたのであった。その約束事というのは、お互いへの礼節であり、リスペクトであり、もっと言えば「感謝」のようなものである。
ここの最低限のところを押さえておくことで、おおむねビジネスは潤滑に回っていくのではないだろうか。逆にここが欠ければ、やらなくても済むようないらん摩擦を起こしてしまうのだ。
大事に扱っている靴だったので、つい・・・
さて、私が気付いた2点目というのは、「人生には時として揺らぎというものが必要であり大切である。」ということである。「揺らぎ」??大袈裟な書き方をしたが、「ときにはちょっと踏み込んで波風立ててみなきゃあ、新しい発見はないよな。心が大きく動くことはないんだよね。」ということになる。
例えば、今回のことにしても、わざわざ私が「ねえお兄さん・・・」と声をかけていなければ、何ごともなく終わった話である。「ちっ、近頃の若けー奴は愛想がなくてしょーがねえなあ・・」と、私が腹の中で舌打ちをして、とっととその場を離れていれば、もう今頃は思い出すこともなくいつもの日常に戻っていたことだろう。
しかし、私はあえて彼に声をかけた。そしてそのことで、こうやって後日になっても、結構長い文章を書くくらい引きずっている。
そうなったのは、今回のようにこっちからアクションを起こしたからにほかならない。そのため、その後もあれこれと考えさせられるはめになった。
まあこれは、それほど悪いことでもあるまい、と思っている。スルーすればなんでもなかった日常の中の一瞬の出来事に、ちょっとした揺らぎというか、刺激を加えたために、その後もいろいろと思いを巡らしている自分がいるのだ。
おそらく、めんどくさい男(老人ですか?もはや)といえばきっとそうなのだろう。けれど、波風立てずにスルーしまくる人生よりは、ときおりこんな風にあえてちょっかいをだしてみるのも、多少アクセントがあって面白いのではないか。勝手な言い分かも知れないがそう思っている。
これからも、ときおりそんな「揺らぎ」をあえて追求していくことだろうな、懲りない俺は。
PS 何を書いているんだ?と思った方は、すみませんが前回のコラムを読んでください。ことの顛末が書かれておりますので。