青春の彷徨、新宿ゴールデン街―無頼に生きる、がテーマだったあの頃―Ⅰ
家族との時間
現在、孫たちの面倒見るため向こうに行ったきりになっているカミさんを含めて、私を除く家族全員東京に住んでいます。そのため、私は上京したときだけ一家団欒の時間を持つことができるのです。東京にいる間、長女次女とその旦那さんたち(義理の息子ですね)それに孫たちを含めた大勢で食事をしたりショッピングに出かけたりします。これに、千葉に住む長男も加われば、さらに賑やかなひとときとなるのです。
ひとり田舎に住む私には、そんな時間はなかなか取れないし、孫たちも可愛いので、とても貴重なひとときといえましょう。しかしながら、上京したときだけとはいえ、連日そんな日が続くと、やや「孫疲れ」の気分にもなってきます。エネルギー旺盛なチビたちの相手はそれなりに大変なのであります。
ぶらり一人散歩
さて、前回、上京したときのことでした。その日も朝から孫たちの相手をしていたのですが、お昼も過ぎてそれにもいささかくたびれてきたので「じいじはちょっと用があるから出かけてくるね。」と、まだ遊び足りなそうな孫たちと娘やカミさんをおいて、一人ぷらっと散歩に出ました。
『さて今日は、娘たちの住まいのある麻布から高台を一つ越えて広尾の方にでも行ってみようか。』と思い、歩き始めました。気候はちょうど秋にさしかかり、こんな風に散歩するにはちょうどいい季節でした。
少し遠回りをして、有栖川記念公園の中を抜け、信号を渡り広尾商店街の入り口に着きました。ここには「広尾プラザ」というショッピングモールのビルがあって、高級スーパーの明治屋ほか様々なテナントが入っています。
画廊に立ち寄ると・・
その日は、1階のスーパーはスルーしてそのまま2階へと上がりました。2階にも真ん中の吹き抜けを囲むように、雑貨屋を始めいろいろなショップが入っています。
その一つに画廊があることは以前から知っていました。この画廊で販売している作品は、店内だけでなく外の廊下沿いにも展示してあります。
それまで、作品をちゃんと観たことなどなかった私は、この日は端から展示作品を観て歩きました。わりとよく見かけるタイプの華やかな色遣いの花の絵などが飾ってあります。
と、そのときです。一枚の絵に私の目がとまりました。ピンクを基調にしたフワッとした抽象画のようですが、なんだかすごく気になります。「気になる」というより正確に言えば、すごく「気にいった」のでした。
日常の延長で、なにげなく絵を見ていて、このときのように「かなり気にいる」或いは「強く惹かれる」という体験は初めてのことでした。
画廊の外にもこうやって展示
ピンク、巨匠の絵と同様に
もちろん、ゴッホやモネなど、いろいろな巨匠の展覧会というのは、今までも何回か観に行きましたし、旅行先などで美術館を訪れて有名な絵画を観て感動したこともあります。
しかし、ああいった絵画はいかに素晴らしいもので、私個人が気に入ったとしても、日常の生活圏内に取り込めるものではありません。所有するとなれば、いずれも数億、数十億円単位の代物になります。
しかし、今目の前にあるのは、散歩がてら訪れた画廊で、普通に飾られている作品です。つまり、私の日常生活圏内にありながら、巨匠の展覧会で感動したときと同じように私を惹きつけたのでした。
このピンク基調の作品はほかにも数点展示してされており、どれも、かなり私好みでありました。「ふーん・・」と、眺めながら額縁の下に小さく書かれた価格を見てみる。三十数万円・・・高いのか安いのか、全くの門外漢なので判断などつくはずもありません。
このピンク基調の絵がなんともいえず魅力的です
ブルー、衝撃の出会い
『しかし、ちょっと立ち寄った画廊で、普通に販売されている絵をこんな風にすごく気にいる、ってこともあるんだ。』と、少し自分で自分に驚きを覚えながら、その画廊を囲む廊下の角を曲がりました。
と、その時です。曲がった先に展示してあった一枚の絵に、私はくぎ付けになったのです。その絵は、タッチからして、明らかに直前に私が初めて強く惹かれた画家のものでした。
ただ、こっちの絵はピンク基調ではなく、ブルーが基調になっていました。しかも、ピンクのものより横にかなり大きいサイズでした。これを描いたのがどんな画家なのか、全く知る由もありませんが、ピンクの色遣いにも増して、私はこのブルーに魅了されたのです。
ご自分のものになさいません?
しばらく呆然とその絵を眺めていると、画廊の中からひとりの年配のご婦人が出てきました。
「いかがです。この絵、お気に召しました?」と話しかけてきます。「いや、このブルーはなんというか・・・その・・」と、うまく言葉になりません。「あまりに素晴らしいので、思わず身体が固まってしまいました。」とようやく言葉を続けます。
「このブルー、すごくきれいでしょう?どうですか、自分のものになさいません?」と、いきなり彼女は購入を勧めてきました。「え?!?」と私がしばし戸惑っていると、「私はこの画廊のオーナーですの。」と名刺を差し出してきたのです。
「あ、はあ・・・」と受け取ったものの、どうしていいかわかりません。もちろん気に入ったとはいえ、購入するなど考えてもいません。
どんだけ金持ちなんだ!!
すると、そのご婦人は言葉をつづけました。「この絵はナターシャ・バーンズという南アフリカの女性画家のものですのよ。」と彼女。「あ、はあ。そうですか。」と私。まあ、そう言われても、門外漢の私にとってまるで知らない世界の話なので何と答えようもありません。
そうすると彼女は、この画家は近年結構人気があること、入荷してもすぐに売れてしまうこと、広尾近辺のご婦人方には何枚も購入した人がいることなどいろいろと教えてくれたのです。そんな話を聞きながら、『こんな結構デカい絵を、何枚も飾るスペースがある大きな家をこの近辺で持っているなんて、どれだけ金持ちなんだ!』と余計なことが頭を駆け巡ります。
完全に魅了されているのだけれど・・
「いかがですか。素敵な絵が一枚あるとおうちの雰囲気ががらりと変わりますよ。」と、彼女が畳みかけてきます。
『そりゃまあ、そうだろうな・・・』と心の中で思いつつ、いきなり目の前の大きな絵を自分のものにするのは、『私にとっちゃあ、いかにもハードルが高いですわ。』とやはり心の中でつぶやくのでした。
しかし、こっちもなんか言わなければと思い、「廊下の向こう側のピンクの色使いの方もいいなと思ったんですが、こちらの絵のブルーはまたなんとも素晴らしいですね。」と、素直な感想を伝えました。もともと青は好きな色なのですが、目の前のブルーは今まで見たこともない深みのある美しい色彩です。自分の心が完全に魅了されているのがわかります。
意外な価格に・・・
そうやって見とれている間、彼女はこの絵の由来や、その女性画家のこと、近辺の蒐集家の話などしてくれましたが、私にとってそんな能書きはどうでもよろしい。はたして買えるものかどうか、恐る恐る値段を聞いてみました。
さっき観たピンクのシリーズは、今目の前にある絵の半分以下の大きさでしたが、30数万円の価格がつけられていました。ということは、この大きさからして3桁(100万円越え)はいくだろうな、と頭の中でぐるぐると計算してみます。はたしてどうでしょうか。
ところが、彼女が示したのは、意外にもちょうど2倍くらいの価格で、思ったよりも安価でした。もちろんそれでも、私にとって充分高価な世界の話ではありますが、『無理すれば届かない額ではないかな。』・・・などと頭の中で考えている自分がいます。
カミさんを盾にとりあえず撤退
しかし、次の瞬間『いかん、いかん、こんなもの衝動買いした日には、カミさんになに言われるかわかったもんじゃない。』と、正気に返って、自分の気持ちを制御し直しました。
そしてそれをそのまま目の前の画廊のオーナー夫人に伝えました。「まあ私は気に入ったのですが、カミさんに相談してみないことには・・」と、とりあえずカミさんをイクスキューズにして逃げを打ったのであります。
「相談してみて、なんなら明日にでも一緒に観に来ますよ。」と、あてのない返事をしました。そもそも相談などできるものかどうか、わかったもんではありません。
「ぜひそうなさってください。お待ちしておりますわ。」と、ようやく画廊のオーナーは解放してくれました。
さて、そうやって画廊をあとにして散歩に戻ったものの、感動の余韻はなかなか消えるものではありません。『ダメもとでカミさんに相談してみるか。まあ、なんていうか、言ってみなけりゃわかんないしな・・』と、頭の中でシミュレーションを繰り返しながら帰途についたのです。