若者から見た「ズレ」への共感について―現代日本の様々な矛盾点を考えてみる―Ⅺ
[自分で最終ジャッジをしなければならないときに迷うのが人間]
何か事を起こすにおいて、誰かに「相談」するというのは普通に行われている行為です。
むしろ、しない人の方が少数派でしょう。
それでは「相談」はいかなる時に行なわれるのでしょうか。
それは何といっても「事前の知識や情報が不足しているとき」というケースが想定されます。
それを補うため、より深い理解を得るために行なわれる行為が相談であろう、と考えられるのです。
グズグズと思い悩んだり、時間をかけてやたら調べたりしているよりは、経験者や専門家に相談する方が一発回答、極めてショートカットで済むからにほかなりません。
「相談」というよりはヒアリング、レクチャーといった方が当たっていると思いますが、これも「相談」の一つと言っていいのでしょう。
また「相談」という形を借りて、ひたすら「聞いてもらいたかった」症候群、というケースもあります。
「相談」という場を設けて溜まっていた思いや不満などを吐き出すのです。
本人は「ああ、すっきりした。」と思っているかも知れませんが、「相談」と称して付き合わされた方は、結構ストレスになっているかも知れません。
これを「相談」と称しているケースも世の中には多いと思います。
こう考えてくると、本当の意味での「相談」というのは「判断に迷っているとき」というのが一番多いのかも知れません。
誰かにジャッジを仰ぎたい、背中を押して欲しい、というときに「相談」という行為が行われるのです。
人は、自分で最終ジャッジをしなければならないとき迷いに迷う動物です。
未知のことに対して自信満々の人など、ほとんどあり得ないと言っていいでしょう。
まだ実行も実現していないのだから当たり前といえば当たり前のはなしです。
しかしながら、このケースの「相談」というのは結構曲者(くせもの)なのです。
かえって「相談」しなかった方がよかったじゃないか、という例は枚挙にいとまがないからです。
この水のようにスッキリとはいきませんなあ・・・・
つづく