自閉症の青年を草なぎ剛が演じたドラマ「僕の歩く道」
A君は小さな時から、なかなか集団に入ることが難しかった。高校生になった今でも、何十人と言う集団の行事や集会に、すっと入ることができない。
彼は発達障害という診断を受けている。
断っておくが、発達障害と診断された人が全員集団の中に入れないわけではないし、発達障害以外にも集団参加が難しい子どもたちは沢山いる。
しかしA君が集団に入れなかったことに違いはない。こういう子どもが今、学校には少なからずいる。
A君が集団に入れない理由はいくつか想像できる。
小さい頃に集団の中でいやな思いをした?
周囲の人の目が気になって仕方がない?
集団のざわめきがイラついて耐えられない?
しかし本当のことは本人に聞いても「わからない」と答えるだけだった。
なぜ、集団に入れないことが問題になるのだろう?
社会は集団生活だ、集団に入れないと言うことは社会生活ができないということだ、という答えが返ってきそうだ。
が、それは本当のことだろうか?
社会に出た時、年齢に応じた社会との関わり方がある。小学校から高校までぐらいでは、ひとつの場所に何十、何百と言う人が集まって行事や集会がもたれる。
しかし大学や社会人になった後では、それほど集団に参加しなくても困ると言うことはないのではないか。
最低限の人間関係が持てれば生きていける。
そういう生き方を自分で選ぶこともできる。
A君について言えば、確かに彼は集団に参加するのは苦手だ。しかし、個人的には決して人と接することができないわけではない。むしろ頑固に自分の意見を押し通す。当然、他の人とぶつかることも多い。集団に埋没・順応する生き方はしようにもできない。しかしそれなりに生きて行く力は育っている。
むしろ集団の中に埋没して、その中でしか自分の立ち位置を見つけられないのは大人の方だろう。
周囲の人と上手くなじめなくてはいけない、我がまま勝手なことをしては集団の和を乱す。
そう言う感覚のしみついた大人が、集団に入れない子どもたちを見て、大変だ!と騒いでいるのではないのか?
発達障害などに限らず、大人たちは自分たちと同じようにできない子どもたちを、問題あり、と見なしてしまうことがあるのではないか?
発達障害と言う少数派の彼らは、逆に多数派の生き方の姿を映し出してくれる鏡ではないのか。
私は、我が身を振り返って、最近そういうことを思うのです。