マナーうんちく話239≪バラ色の人生とマナー≫
12月は一年間の汚れを除き、清めて、清々しい気分で新年を迎えたいという思いで「徐月」となづけられましたが、世界の中でも特に日本人は「けじめ」を大切にしてきたようですね。
日本は四季が明確に分かれていることが大きな理由だと思いますが、けじめを大切にする年中行事や言葉は多々あります。
例えば「上巳の節句(桃の節句)」を過ぎたら直ちに雛飾りの後始末をしますが、これはいつまでもお祭り気分に浸るのではなく、お祭り気分に「けじめ」をつけようということです。
「衣替え」もその典型的な例ですね。
「忘年会」や「卒業式」もそうでしょう。
「立つ鳥跡を濁さず」という言葉もよく知られています。
今年はSDGsが話題になりましたが、昔の人は物を上手に扱うとともに、物をしまうことも丁寧でした。
使い終わったら丁寧に後始末をして次に備えます。
特に「干支」に関するものは、12年先になるので丁寧に後始末して下さいね。
さらに物が豊かになりすぎた今は見落とすことが多いですが、日本には世話になった人はもちろん、物にも礼を尽くす習慣がありました。
そのポイントは「感謝の心」です。
この1年間無事に過ごせたことに感謝するとともに、パソコンや車や衣服など身近なものや人に「ありがとう」の気持ちを添えて下さい。
それらに支えられて日常の生活が成り立っているから、感謝して礼儀を尽くすわけです。
その気持ちが「けじめ」の原点だと思いますが如何でしょうか。
「けじめがある」ということは、節度があり、美しいということですが、中でも年末年始のけじめは大切にして下さいね。
美しい終わり方を理想とする、日本人の感性や美意識を象徴する「有終の美を飾る」をいうことばがあります。
「有終」とは令和3年の終わりと捉えたらいいでしょう。
「美」は今年の年頭に立てた目標、そして「飾る」とは、その目標達成のために一生懸命努力することです。
そして一年を振り返ることが何かと多い年の瀬ですが、特に印象深いことといえばコロナにオリンピックではないでしょうか。
ちなみに私は大いに気になっていたものの一つに「森友裁判の行方」がありました。
古来、日本人は物事の締めくくりを大切にしてきましたが、これだけ国民を騒がした事件だけに、せめて最後くらいは、誰もが納得するようなきれいな形でけじめをつけて欲しかったわけですが、私のような凡人には思いもつかないような卑劣なやり方での幕引きでしたね。
いったい誰が考えるのでしょうか?
良心が痛まないのでしょうか?
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺がありますが、これらにかかわった人すべてに嫌気がさしてきました。
本来役人や政治家が守らなければいけないのは、国家と国民であり、一部の権力者ではないはずです。
結局国民は責任を、またあいまいにされてしまいましたね。
最近報道の在り方にも大いに疑問を感じます。
オリンピックの時もそうでしたね。
あれだけ開催に反対する人がいたにもかかわらず、申し合わせたように開催のムードを盛り上げる報道が目立ちました。
また生活に困ってお宮のさい銭箱から、わずかばかりのお金を盗んだ人のニュースは、誇らしげに報道はするが、都合の悪いことは忖度を働かせて、あいまいにしてしまうような気がしてなりません。
そもそもジャーナリストの仕事は報じることでしょう。
良いことも、悪いことも、事実をきちんと報じて欲しいものですね。
私の尊敬するジャーナリストで評論家の立花隆さんのような人が再来し、真相を究明してくれることを願います。
ちなみにけじめには「公私のけじめをつける」とか「仕事にけじめをつける」などの使われ方がありますが、道徳や規範に従った節度ある態度の意味もあります。
非難や間違いの責任の区別をつけるということですね。
最初と終わりが大切という意味の「慎始敬終」という言葉があります。
年末をむかえたところで、そろそろ忖度にはけじめをつけ、爽やかな気持ちで新年を迎えたいものです。
一年間お付き合いいただき誠にありがとうございました。