マナーうんちく話485≪上座に勧められたら、どのように対応する?≫
12月14日は日本人なら誰しも知っている歴史上の大事件が起きた日ですね。
小説、浄瑠璃、映画、テレビでおなじみの「赤穂浪士の討ち入りの日」ですが、この大事件に実はマナーが深くかかわっていることをご存知の方は少ないのではないでしょうか。
時は徳川5代将軍綱吉の時代。
当時は正月になると江戸城に天皇の使者である勅使を迎える儀式がありました。
現在のビジネス社会でもそうですが、大切なお客様をお迎えして接待するには接待係が必要です。
この接待係を務めた一人に赤穂藩主浅野内匠頭がいたわけですが、武家には武家の作法があるように、公家には公家の作法があります。
接待役は両方に精通しなければなりません。
そこで公家の古式風習や作法に詳しい高家筆頭の吉良上野介に教えを請い、いろいろなことを学ぶわけですが、事がうまく運びません。
「教え方が悪いから」ということで、浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介に刀で切り付ける事件を起こしました。
勅使の接待において、作法に関する失礼があり、武士の面目を失ったのは「教え方が悪かったから」という理由で、教え子が先生を襲ったことになりますが、これには諸説あるようです。
江戸城内で刀を抜くことは厳禁ですから、浅野内匠頭には思い罰が加えられ当日切腹、加えて浅野家はお家断絶になります。
喧嘩両成敗ならよかったのでしょうが、切り付けられた吉良上野介はおとがめなしです。
そこで赤穂藩筆頭家老である大石倉之助を中心とした47人、つまり47人の赤穂浪士が1702年12月15日の未明に、雪が舞う江戸で吉良上野介を打ちいったという物語で「忠臣蔵」として300年以上語り伝えられています。
刃傷沙汰になった詳しい動機や経緯は記録がないので憶測の域を出ません。
しかも300年以上の月日の中で様々な脚色、創作、演出が加味されたことは容易に推察できます。
しかし、殿様に対する忠義を、命を懸けて果たしたことに、多くの人が大きな感動を覚えたことは確かで、美学として捉えられています。
だからこそ次々と脚本がかかれ、NHKの大型ドラマを始め、民放でも年末の風物詩になるくらい人気が持続しているのだと思います。
当時のお役人は権力もあり経済的にも恵まれていたのでしょうが、それだけに凛々しく、潔かった気がします。
今年も政治家の不祥事がうんざりするくらい報じられましたが、あまりにも次元が低すぎる内容に思えてなりません。
また潔さのみじんも感じられません。
恐らく、当時の江戸城内における儀式に要求される礼節は、非常に高度であったと思います。特に公家の接待を武家が執り行うとなれば武家礼法と公家礼法に通じることが必要になります。
洗礼主義もはなはだしかった時代においては大変だったと思います。
それだけにやりがいもあり、晴れ舞台にもなるはずです。
接待係としてのプライドも誇りもあったことでしょう。
しかし失敗すれば命を落とす覚悟も必要だったのかもしれませんね。
美学というものはこのような思いの中から目覚めるのかもしれませんね。
いずれにせよ、日本中を揺るがせた大事件の裏には「マナー」が大きくかかわっていたことは確かなようです。
指導的立場にある人、教育に携わる人、政治に携わる人にはぜひ《マナー美人》になっていただきたいものですね。