マナーうんちく話239≪バラ色の人生とマナー≫
マナーうんちく話58《称賛された礼儀・作法》
「日本人の礼儀・作法の素晴らしさを世界に向けて発信した著名な外国人たち」
今日から4月、新年度ですね。
ところで4月は、「卯の花」が咲くから「卯月」、また苗代に籾を蒔く(種を植える)時だから「植え月」ともいわれているのは御承知の通りです。この他あまり知られてないようですが「わたぬき」とも表現されます。これは、今まで着物に保温のため「綿」を入れていたものを、温かくなってきたので抜く、と言う意味です。最高の環境保全につながることだと思います。この度の原発事故を境に、改めて見直したい風習だと思います。
ちなみに岡山県では、「卯の花」が咲いたり、「苗代」の用意をするのは、県南と県北ではかなり異なりますが、4月下旬から5月初め頃でしょうか。
本題に入ります。
未曽有の震災から懸命に立ち上がる日本人の姿を見て、世界各国のメディアが日本人の礼儀正しさ、規律正しさなどを褒め称えているようですが、実はこのことは、日本が開国以来、日本を訪れた多くの人物がすでに世界に向けて発信していました。
親日家・日本を紹介した人・日本を愛してくれた人は多々いますが、日本の礼儀・作法の素晴らしさを世界に広めてくれた著名な外国人を挙げてみます。
●マルコ・ポーロ
ヨーロッパに初めて日本を紹介した人物はマルコ・ポーロだということは御承知の通りです。彼は東方見聞録で「黄金の国ジパング」として、「日本は独立した島国で、多くの金を産出し、人々は外見が良く、礼儀正しい」と記しておりますが、このことは実際に日本を訪れて書いたのではなく、中国に立ち寄った時に中国人から聞いたうわさ話だそうですね。
今から約800年位前の話でしょうか。
ちなみに英語のジャパンの語源はこの「ジパング」だとされております。
★ペリー提督
日本は長い間「鎖国政策」をとっておりましたので、諸外国と交流がなく、いきなり幕末に飛びます。開国を控え日米対談が行なわれていた頃です。
1854年2月10日に、日本はペリー提督の一行を「会席料理」でもてなしました。そして2月29日に、そのお返しとして、ペリー提督から黒船の中で手厚い饗応を受けております。余談事になりますが、この時の料理は、鶏、豚、牛、羊、鴨、七面鳥等からなるフランス料理だったそうです。接待を受けた幕府の高官たちは、初めて経験するご馳走を、とても喜んで頂いたそうです。勿論今みたいに冷蔵庫が発達していた時代ではありませんので、提督の一行は、船の中でこれらの動物や鳥を飼育していたのでしょうね。「黒船」と言っても「宇高連絡船」位の大きさだったようです。
この時、ご馳走を食べ終わった日本の役人たちは、残りの馳走を丁寧に懐紙に包み持ち帰ったので、提督たちから「行儀が悪い」と大変笑われたという記述があるそうです。当時の日本では、会席料理の残りは持ち帰るのが礼儀とされていたので、これは文化の違いでしょうね。そういえば、結婚式の会席料理には「持ち帰り用の折箱」をつけていた記憶があります。15年くらい前の話です。
●ハリス米国総領事
そしてアメリカ人として初めて、日本の総領事に赴任したハリスは、「日本人の暮らしは貧しいけれど、皆一様に勤勉で、清潔で、大変礼儀正しい国民」だと彼の日記に記しています。当時の日本は、「寺子屋」や「藩校」などの教育機関が発達しており、就学率が非常に高く、読み・書き・ソロバンに関しては世界トップクラスだったようです。
余談事になりますが当時は、藩校では武士の子どもに論語・礼儀・作法等を教えていたようですが、寺子屋では一般庶民の子どもに読み・書き・ソロバンを、そして女子には裁縫や礼儀・作法も教えていたようです。
そして当時の就学率は、世界一の都市であったイギリスでも、せいぜい20-25%だったのが、日本では70%を超えていたという説が有力です。江戸に限ればさらに多くなります。教養の表れが礼儀・作法ですから頷ける説です。
ついでに余談事をもう一つ!この頃の江戸は大変貧しかったけど、今みたいなホームレスはいなかったそうです。
●ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
明治時代に入ると、欧米に日本及び日本文化を紹介する数多くの著書を書いたラフカディオ・ハーンが登場します。彼は小説家・随筆家・日本研究家として有名ですが、イギリスで学び、アメリカで新聞記者を経験し、1890年来日しております。現在の島根県立松江北高校、島根大、熊本大、東京大等で英語の教師の傍ら欧米諸国に積極的に「日本」と「日本人の礼儀正しさ」などを紹介しております。
アメリカから島根県に来た時、彼の身の回りの世話をしたのが、松江藩士の娘・小泉節子です。ラフカディオハーンは小泉節子の、外見的美しさ、立ち居振る舞いの美しさ、賢さ、礼儀正しさにすっかりほれ込んで、小泉節子と所帯を持ち、名前を小泉八雲と改めました。ちなみに「八雲」は、当時の松江は「出雲の国」であり、その出雲の国の枕言葉が「八雲立つ」なので、それを拝借したようです。
当時の武家の娘は、礼儀・作法のみならず、茶道、華道に長け、俳句や短歌などもたしなんでいたのでヨーロッパの人たちには特に魅力的だったと思います。
これも予断事になりますが、「世界一美しい立ち居・振る舞い」とは、日本人女性が、着物姿で、凛として畳に正座し、そして立ち上がる時の美しさだといわれております。また襖や障子を開け・閉て(あけ・たて)する時の所作も大変美しいものがあります。関心のある方は、「和室の礼儀・作法と会席料理のテーブルマナー講座」を、6月12日(日)、鷲羽ハイランドホテルで開催しますのでぜひお越しください。予約制です。毎回大好評です。
●アインシュタイン博士
大正時代には世界的大物理学者のアインシュタイン博士が奥さまと共に、1922年(大正12年)に、日本にやってこられました。彼は「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」がとくに有名で、ノーベル物理学賞を受けていることは御承知の通りです。そして来日の目的は科学を通じた交流と共に、前述しました、ラフカディオハーンの書いた美しい日本を、直接確かめたかったそうですね。
元々親日家でもあったのですが、日本で43日間滞在し、その時に、ヨーロッパにはない、日本特有の文化度の高さ、洗練された礼節、特に日本の「お辞儀文化」に大きな感動を受けたそうです。
彼は偉大な「理論物理学者」ですが、日本人の礼儀正しさを、理論でとらえているのではなく、それをキチンと感性でとらえているところがすごいと思います。
また彼は、断固たる平和主義者であり、しばし天才の代名詞に捉えられるほどの頭が良い人だけに、前回のコラムでも書きましたように、「日本のお辞儀は平和な時代に確立された日本の礼儀・作法の典型的な例」であるということをしっかり把握されたのでしょうね。そして日本という国は、ヨーロッパ諸国のように「武力で統一された国」ではなく、「文化で統一された素晴らしい国」でもあると語っています。
ただ当時の日本は、何でもかんでも欧米文化を模倣しようとした時期でもありました。
アインシュタイン博士が日本を離れる時に、日本人に向けて「何もかも欧米の真似をするのではなく、折角素晴らしい文化や礼儀・作法を誇る国なのだから、もっと日本人としての自信を持ち、もっと自分の国を愛しなさい」と告げた話は有名です。
これも予断事ですが、核武装の廃絶を強く訴え、核の平和利用を積極的に推進された偉大な学者は、今回の日本の原子力発電所の事故を天国からどのように見られているのでしょうか?
今日のコラムで、日本人の素晴らしさを改めて認識いただき、誇りと自信を持って新たなスタートを切っていただければ嬉しい限りです。