面倒見のいい大学と大学生の学力
金融業界のエースが、「人文学」を学ぶ理由という記事を見ました。私もどちらかというと人文学の出身ですので、人文学を学ぶ意義は大きいと考えています。私は、仏教学という学問分野でしたが、仏教学に限らず、例えば歴史学との境界くらいの研究になることもあれば、カウンセリングに仏教を応用する「応用仏教学」を意識することもあります。
仏教は、この国の歴史と常に歩んできました。この国の歴史の背後には常に仏教があるのです。仏教は日本からすると外来宗教であることは明らかですので、必ずこの国での「最初」があります。それが仏教伝来であり、西暦で言えば538年頃(552年説もあり)になります。仏教がインドで生まれてから約1000年でこの国に到達します。たったこれだけの事象を捕まえても、色々なことを知ることができますし、逆に知らなければ「ふ~ん」で終わってしまいます。その1000年に目を向けるならば、その500年ほど前が紀元前後頃ということになりますが、その頃、既存の仏教とは少し異なる大乗仏教(経典)が続々と生まれます。西の方では、言うまでもなくキリスト教の芽生えがありました。紀元前後頃、インドで仏教は栄えます。大乗仏教という漠然としたものが栄えたわけではなかったようですが、仏教に投資をする人も多く、仏像などもこの頃生まれます。仏像は、本来、仏教の発想にはなかったものですが、その制作に影響を与えたのは、当時インドのすぐそばにいたギリシャの文化、すなわちヘレニズム文化の影響が色濃くあったとされます。生まれた場所はガンダーラ。そこは、文化混交地帯であり(今も)、民族紛争の地でもあり、商業の栄えた地でもありました。そんなところに心穏やかな顔をした仏像と、THE自由人の仏教の出家者が混じるというシュールな絵柄が生まれました。それが意味することは、仏教がそんな雑然とした地域で求められたということです。出家の僧侶(比丘と言います)は、基本的に求められたところに行くか、自由気ままに移動します。求められたところに行くとすれば、やはり平和で安穏とした地に行く確率は間違いなく下がります。そんなところに新しい宗教など不要だからです。求められる地は、常に紛争地や文化の交差点のような地になるのは必定と言えるのです。それを繰り返しながら、仏教は故国インドを出て、シルクロードと呼ばれる道を(といっても砂漠)東に進み、同じように生まれては消えていく国や民族と溶け合い、言葉を覚え、その地に根ざしつつ、歩みを止めることなく、同じく五胡十六国時代や南北朝時代という大混乱期の中国や朝鮮半島を経て、やはり、まだ混乱期であった歴史なき時代のこの国に届いたのです。
長々と書きましたが、私が描く、仏教がこの国に届くまでの流れをストーリー仕立てで1000字以内で書くと、このあたりの話を選択します。また例えば大乗仏教の発生くらいに目を向けると、また別の壮大なストーリーがあります。大乗仏教以外の仏教の姿を描くことも可能です。仏像誕生までのドラマはあまりにも面白いものがあります。インド人とギリシャ人の対話を描いた「ミリンダ王の問い」という文献を今塾内で生徒さんと一緒にパーリ語で読んでいます。シルクロードについて語らせるとかなりうるさいです。私一人でも、この周辺だけでもしゃべらせると、かなりしゃべります。しかし、人文学の良いところは、私以外の仏教学者が同じ時代を同じ条件で描くと、全く違うストーリーになります。また歴史学者、文学者が描くと、もっと面白いストーリーができるはずです。それぞれが長い時間をかけて勉強したことを1000字にまとめて、たとえば100人がストーリーを書いてみて、それを並べて読んでみると、同じ時代、同じ地域について、極めて奥の深いストーリーができるはずなのです。私などは、そんなイメージを持つだけでワクワクします。仏教伝来という歴史のほんの小さな一コマを切り取って、様々な知見を飲み込ませ、様々な視点から事実に迫る。これが人文学を学ぶ意義の一つだと思っています。そうすると、「○○ファースト」などは愚かしいということに気づくと思います。
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