トップの「意識」によって政治も経営も変わる!―「被害者意識」・・そのもたらすもの―Ⅰ
今日の目次
・そもそも清純派って?!
・言われたら演じる、それだけのこと
・だから何だというのだ!
・「清純派」というレッテル
・商業的に使いやすい
・欺瞞が限界点に達したとき
そもそも清純派って?!
今年の春ですから、もう半年以上前の話になりますが、永野芽郁という女優が不倫をしてしまったとかで、マスコミを始め世間からも総叩きにあっていました。相手の男優を含め本人たちは否定していたようなので真偽のほどはわかりません。ただ世間としては、永野芽郁に関して「清純派だと思っていたのにとんでもない・・・」ということで非難ごうごうだったと記憶しています。
私はこれを聞いて「え!そうなの?!」と、いささか驚いたことを覚えています。というのは、この永野芽郁という女優についてはよく知らないのですが『「清純派だったのに・・」という非難の仕方はないだろう。』と思ったからです。
何故ならば、私が『そもそも、世間が「清純派」というジャンルまたはカテゴリー?を設けていること自体おかしくねえすか?』と、考えているからにほかなりません。
言われたら演じる、それだけのこと
女優というのは、言うまでもなく演じるのが仕事です。どんな汚れ役だろうがしたたかな女であろうが、その役を与えられたら演じ切るのが仕事でしょう。たまたま、見た目が初心(うぶ)そうでお嬢さん風だから「清純派を演じてくれ」と言われたら演じる、それだけのことだ、と私は思っています。
つまり、世間がボンヤリとイメージするところの「清純派」なんて、世の中に実在するのかなあ?というのが私の考えなのです。見た目も中身も100%「清純派」なんて本当にあり得るんでしょうか?
ですから、「清純派っぽく見えるところがいい。好きだ。」というのはあり得る話だろうと思います。しかし、「(プライベートを含めて)清純派じゃなかったら許せない。」というのは行き過ぎというか、彼女たちにとって、やや気の毒な気がしてしまうのです。
だから何だというのだ!
この話で思い出したことがあります。以前、このブログにも書いたことですが、私は昔、天地真理のことをアイドルとして好きだった時期がありました。いわゆるファンだったということになります。
なんと言ってもステージの彼女は可愛くて美しい声で、ファンであった若い頃の私を魅了したのです。彼女のイメージは、まさに世間でいう清純派だったことになります。
しかし、その後年月が過ぎて、彼女のアイドルとしてのポジションにもやや陰りが見えてきた頃でした。週刊誌かなんかに、「天地真理が楽屋で、片ひざ胡坐(あぐら)をかいて座り、煙草を吸っていた。」とすっぱ抜かれたことがありました。
清純派なのにとんでもない!というわけです。それがただの目撃情報だったのか、写真にまで撮られたのか知らなかったのですが、とにかく結構な騒ぎになって、彼女の評判にかなり傷を負わせました。
私は、彼女がそんなことを言われている、となにかしら間接的な情報で知りました。けれども、直接その週刊誌を見たわけではなかったし、別に見たいとも思いませんでした。仮にそれが事実だったとしても「だから何だというのだ!」というのが私のスタンスだったからです。
「清純派」というレッテル
当時から、私はアイドルというのはステージ上でそのすべてを表現してくれればそれでいい、と思っていました。私はステージ上の彼女のファンなのであって、それ以外の実像など追求しても意味がないという考えだったのです。
そういう意味では、件の永野芽郁事件にしてもそのほかの女優やアイドルにしても、「清純派」というレッテルを貼られるのは、或る意味気の毒な話だと思います。というのは、芸能界というのはそれなりにしたたかでなければ生きていけない世界だろうと思うからです。
そういう意味では、世間がイメージするところの「清純派」が生きていける世界などとはとても思えません。ということは、「清純派」に見えれば見えるほど、逆に「清純派」を見事にかつしたたかに演じていることになるのではないでしょうか。
商業的に使いやすい
ただ、「清純派」というイメージが、商業的に使いやすいことは確かです。特に日本企業はそのイメージに依拠しやすい傾向があります。
だからこそ、永野芽以のⅭⅯ数はかなり多かったのではないでしょうか。そのため、あのとき彼女が負わされたダメージも相手の男性俳優とは比較にならないほど大きかったことになります。
そう考えると「清純派」というレッテルで仕事をこなすというのは、そこそこリスキーでもあるな、と思います。人間の本質に対して、かなり窮屈な型にはめられたイメージでもあるからです。
女優や歌手、アイドルなどに、何かしらこの型にはまったようなイメージを勝手に投影して「こうでなければならない。」と決めつけるのはいい加減やめにしたらどうかと思います。清純そうだからⅭⅯに起用する、という判で押したような日本企業の姿勢もなんだかまだ成熟していないなあ、と私は感じています。
欺瞞が限界点に達したとき
清純派というカテゴリーは、需給のバランスで成り立っていると思います。清純派というイメージが受けそうだから企業がCMに使う、そんな需要があるから清純派を装う、装い方が巧みな女性タレントほどさらに使われる、ますます清純派を装う、この変な繰り返しが成立している世界。しかし、タレント側の「清純派を装い続けなければならない」という欺瞞が限界点に達したとき、あの事件みたいな破綻に至るのではないでしょうか。
とはいえ、冒頭にも書いたように永野芽以という女優がそんなに清純派だったっけ?といった疑問は私の中に残ります。いい意味で、かなりしたたかな女優だったような気がするからです。
で、その可能性を秘めた女優が、「清純派」というレッテルにちょっと反しただけで、将来への道を断たれるのはなんだかもったいない気もします。まあ、本当に力量があれば、今度は全く違うイメージで復活してくるでしょうし、そんな話チラホラ聞こえてきているようです。
真理ちゃん、昔の映像。
とにかく可愛かったんすよ。



