青春の彷徨、新宿ゴールデン街―無頼に生きる、がテーマだったあの頃―Ⅰ
やや冷たい家族の反応
自分がそうだったので、ジョークというのは、日常会話の中で割と普通に交わされている、と思い込んでいた私。
しかし、改めて振り返ってみると、日常のコミュニケーションの中にジョークを交える人というのは、本当に少ないな、ということに気がついたのです。
私の言っているジョークというやつが、いわゆる世の中で揶揄されている「おやじギャグ」であれば、ここまで書いてきたことはすべて無に帰してしまいます。場を和ませるジョークの部類なのか、いわゆる「おやじギャグ」なのかは、会話のセンスのようなものによって分かれるところです。これについては、自分で判定するのは若干難しいかも知れません。
もちろん、私が普段かましているジョークは、「おやじギャグ」などではないと自身では思っていますが、世間の判定はどうでしょうか?
その点、私の場合、家族からの評価はやや厳しいような気がします。カミさん、長女、次女の我が家の女性軍団は、あまり私に優しくありません。ちょっとしたジョークを飛ばしても冷ややかに見られることが多いのです。まあ、あちらにはあちらの言い分があるのでしょうが、私に言わせれば、もう少し余裕をもって見てくれてもいいのではないか、と思う場面が多いことも確かです。
まあ、身内であるあの連中との関係はさておいて、肝心なのは、外でのいろいろな交流の場面です。ここではやはり、軽いジョークを交えた滑らかで柔らかなコミュニケーションといった世界の実現が望ましい、と思っています。
ジョーク交じえて話をするのはH先生だけ
さて、冒頭の話に戻りたいと思います。「世の中にはジョークを飛ばす人間と、全く言わない人間の2通りがある。」と書きました。私としても、ジョークを飛ばす人間の方が少数派だろう、と思ってはいたのですが、改めて振り返ったとき、その差は私が想定していた以上である、ということに気づかされたのです。
「あれっ、日本人にはジョークを飛ばす人間はほとんどいないんだ。」ということに気がついたのです。これはかなり意外な事実でした。手前味噌かも知れませんが、日本人ももっと会話の中にジョークやユーモアを交えた方がいいのではないかと思います。
例えば業界で言えば、私とジョーク交じりに話をするのはH先生一人だけです。ほかには思いつきません。
なので、彼とちょっときつめのジョークを交えながら話をしていると、業界仲間はみんな驚いているようです。「先生たち、仲が良いんですか?それとも悪いんですか?」などと聞いてくる人もいるくらいです。彼らには、ジョーク交じりに会話を進める愉快さがわかっていないのだと思います。
言い得て妙なる比喩は会話の潤滑油
ところで、先述した私の事務所の副所長を「影のボスであります・・・」というのは、まあ一種の比喩であります。もちろん、本当のボスではないのはその通りですが、いろいろと大事な職場の采配を任せているということでは、あながち嘘でもありません。
「影のボス」というのが、私なりに彼女の立場を表現した例え(比喩)であるのは言うまでもないことです。つまり、ジョークやユーモアというのは、巧みな比喩が重要な要素となると思います。
言い得て妙なる比喩が、いい感じである物事や現象を表現できていれば、それを聞いた人は、その本質や特徴を一瞬で把握し、しかも笑いながら理解することが可能になります。こういった会話の上での膨らみ、余白のようなものが日本人には少し足りないのではないか、と思うのです。(関西ではそれが行き過ぎている、という話もあるけれど・・・)
この点において、私が極めて優秀な喋り手であるなどという気はさらさらありません。しかし、「ジョークを交えて会話をする人が少ないなあ・・」という私の分析を少しでも解消するためには、日本人ももっとジョークやユーモアについて考えてみてもいいのではないか、と思っている今日この頃です。
一見、和やかそうではありますが、
私のジョークにはちょっと冷たい。
おしまい