突破できるのか、業界の常識というハードル―業界の常識は世間の非常識??―Ⅰ
ショーペンハウエル先生の鋭い指摘
先日、ネットの記事をあれこれ見ていたら「天才と賢い人の違いはなんですか?」という問いに答える、といったタイトルのコラムがありました。そのコラムの中で、哲学者ショーペンハウエルの言葉として次のような一節が紹介されていました。
「才能とは誰も射ることのできない的を射ることであり、天才とは誰にも見えていない的を射ることである」
私は「ウーム・・!!」とうなってしまいました。さすが、ショーペンハウエル、並みの表現力ではありません。この例えが、それこそズバリと的を射ています。
ショーペンハウエルは、昔の学生歌で「デカンショでデカンショで半年暮らすぅ~♪」と歌われたり「意志と表象としての世界」の著書で有名な、歴史に残る哲学者です。上記の言葉は、彼の面目躍如、それこそがまさに天才的な指摘と言えましょう。(デカンショとはデカルト、カント、ショーペンハウエルの3人の哲学者を指すといわれています。)
「天才」に会ったことはまだありません
現実世界の中で、私の周りにもそこそこ賢い人はいます。それでも「誰も射ることのできない的を射る」ところまでの人はなかなかいません。ましてや、「誰にも見えていない的を射る」境地の人に実際出会ったことはありません。
もし、そんな人物に一生のうち一回でも出会えるとしたラッキーというものだろうと思います。中学(わりと有名な進学校でしたけれど・・)から大学まで、友人たちの中にも結構賢い奴はいるにはいましたが、上記のような「天才」と言えるレベルの人間には出会えませんでした。
ところで、上記のショーペンハウエルの言葉はいろいろな意味で示唆に富んでいる、と私は思いました。この例えは我々の日常からは、一見かなり遠いレベルの世界を示しているように見えます。
ただこれを、自分たちとは関係のないはるか高い次元での話として切り捨ててはいけない、と思います。そこからグッと逆算して、我々はその手前の現実世界に思いを寄せてみるべきではないでしょうか。
というのは、或る意味このような普遍性のある大きな判断材料を示してもらったということは、その手前のもっと身近な考え方や行動の基準といったものについては、それを推論する物差しになるからです。そう考えてみるだけで、我々の日常生活、特にビジネスシーンに関連していろいろと参考になるのではないかと思ったのです。
「才覚」のある経営者はどこに?
賢い人というのは、一般人にとって「見えてはいるのだが、到底その的に当てることは無理だろう」と思えるような難しい的に矢を当ててみせるから、周りの称賛を得ることになります。つまり、普通の人にも一応見えている、或いは想定できてはいるものの、「あんな目標を達成するなんてとても無理だよなー」といったことを達成して見せるから、優れた才覚のある人として認められるのです。
まあこれだけでも、そんな人物は自分の周りにそうそういるものではありません。とはいえ、そういった「才覚」を発揮する優れた経営者には出会ってみたいものです。
しかし、残念なことに、特に地方においては、平成以降、そんな人(私の場合、主として「経営者」ということになりますが・・)を見る機会はほとんどなくなりました。遠い大きな的を見据えて、それを射抜くために尋常ならざる才覚を発揮する、といった場面に出会うことなどまずなくなったのです。
そんな周りの状況に気がついたとき、何故だろうと考えました。何故、私の周りには困難かつ大きな的を射ようとする才覚ある人がいないのだろうか、と。
まず、的を見てください
しかし考えてみれば、ここには一つ必要な条件があります。それは一応「その的が見えていなければならない」ということです。
これはいったいどういうことでしょうか。それは、例えその的が遠くても、「あれくらいのことが達成できればすごいんだけどなあ・・」とか「あんな目標を目指したいものだよなあ・・」とか、視認できる範囲の目標とか理想のような何か、がなければ始まらない、ということです。
この事実を考えたとき、私の身近には、そのよく見てみれば見えるはずの遠い的すら見ようとしない人が多い、ということに気がつきました。遠くにある的をまず見ないことには、なにかを達成するための、スタートラインにすらつくことはできないのは当たり前のことです。
このことから、経営者にとって最も重要なテーマは「自らの事業の目標を定める」ことだということがわかります。そして、それを達成することができれば、「才覚」ある人として認知され一目置かれることになるのです。
遠い目標は?