アナログ、デジタル両方の媒体を駆使して情報を発信―経営と深く関係するメディアのあり方と時代性について―Ⅴ(おしまい)
「暗黙知」が重要視されていた時代
近年、或ることをよく考えるようになっています。
それは、長年ビジネス現場で身に付いた経験則や簡単には言葉で表現できないようなキャリア形成と、情報のやり取りやデータの処理といった実務上の具体的なスキルとの相克、というか対立構造のようなものがあるのではないか、ということです。
おそらく昔は、前者の経験則のようなものの方が優位性を保っていたのではないでしょうか。
例えば、「もっと先輩の背中を見て学べ」とか、「わが社の伝統文化を肌で感じろ」とか、「上司の声色で何を求められているか察しろ」とかマニュアル化できないようないわゆる「暗黙知」と言われる分野が重要視されていたと思います。
ということは必然的に、より長くキャリアを積んだ年配者の方が原則有利ということになりますね。
年功序列が当たり前とされていた雇用形態の時代では、上記のような法則が成り立っていたのです。
この法則のもとでは、長くその職場に慣れ親しんだ人の方が、より重宝されていました。
形勢逆転の時代に
しかし、現在のビジネスシーンでは、コンピュータを道具として駆使する業務の効率化、生産性の向上といったことが何よりも優先されます。
そうなると、「暗黙知」によって優勢を保っていたおじさん軍団には、やや旗色が悪いことになります。
コンピュータの持つ特質やその操作に長けていないことには、仕事がスムーズに進まないからです。
コンピュータの操作に慣れるというのは、別に「暗黙知」とは言えません。
それなりに集中して学習すれば身に付くもの、つまり「形式知」ということになります。
コンピュータがここまでのデータの処理能力や情報の受発信の高度な能力といったものを有していなかった以前のビジネス社会であれば、個々人の持つ経験則や知識の方が、ビジネス現場でそれなりの威力を発揮していました。
しかし今や、パソコンに関するスキルを持たず、データの処理や情報の取り扱いに長けていなければ、職場においてはもはやお荷物扱いです。
アナログ的処理方式や情報伝達方法しかできない、受け入れられないとすれば、その人間はスポイルされるしかないのです。
「働かないおじさん」「妖精さん」?
以前、ビジネス系の雑誌の特集で「働かないおじさん」というテーマが以下のように取り上げられていました。
―近ごろ、新聞紙面や雑誌などでよく目にするようになったのが、「働かないおじさん」や「妖精さん」といった、40~50代のサラリーマンを揶揄する言葉だ。
みなさんの会社でも探せば見つかるのではないだろうか。
会社にはいるが、仕事をしているようには見えず、それでもそれなりの給料をもらっている存在が。―
といった記事を見かけたことがあり、このことについて書いたこともあります。
記事の主旨としては、年功序列でそれなりのポジションについたものの、社内でやることがなく、上記のようにその存在を揶揄される人たちが結構なボリューム出現しているということでした。
ボスという立場でかろうじて・・
ちなみに私も、コンピュータの操作がそれほど得意な方ではありません。
コンピュータの操作そのものもそうですが、IT技術、デジタル化された世界観といったものに対する感覚的な理解度がいまいちなのです。
下手すれば、上記の「働かないおじさん組」に入れられてしまいそうな立ち位置といえましょう。
とはいえ私は、現在の職場(少人数の会計事務所です)の一応ボスというポジションなので、上記の「おじさん」のように、あからさまに揶揄されることはなさそうではあります。
そんな私ではありますが、はたして若手の目にはどう映っているのでしょうか。
日常的には、ボスの立場を利用して、パソコンの操作や機能などに関してわからないことがあると若手のメンバーちょっと呼んで聞いてみたり、時には処理を代わってもらったりすることはあります。
で、そのような状況にある私が、近年どう感じているかと言えば、「形式知」的なスキルや知識がますます効力を発揮する時代になってきたなあ、ということです。
「形式知」から「暗黙知」へ
冒頭に記した「先輩の背中を見て学べ」的な仕事の進め方は、どんどん影が薄くなってきています。
ビジネス現場で「形式知」的なスキルや知識がますます効力を発揮するようになった結果、やや曖昧な「暗黙知」的なスキルはどうも旗色が悪いようです。
仕事の進め方にも明らかな変化が起こっているのです。
さて、こういうビジネス界全体の状況を見て、私はそれでいいと思っています。
コンピュータ処理を中心としたデジタル世界への理解や操作の習熟といったことを前提に、昔より仕事が早く覚えられるのであればそれに越したことはありません。
というのは、そういったことのスキルアップを通じて、仕事がある程度できるようになったとしても、その先に「暗黙知」的な世界はやはりいくらでもあるからです。
「形式知」的な定型的処理や考え方ではどうしてもカバーできない「暗黙知」の世界は確実にあります。
ある、というより「必要だから存在する」と言った方が正しいかも知れません。
私なりに形成してきた「暗黙知」
例えば、クレーム処理といった仕事には、ある程度マニュアルのようなものはあるにはあります。
しかしながら、クレームをつけてくる相手の人格、性格といったものは実に千差万別です。
ときには、マニュアル的なものを超えて対処しなければならない場面が生じることもあるのです。
私の職場でそういった事態に陥った場合、最終的にはやはり私の出番となります。
相手の要求が理不尽なもので、おまけに人格的にもハチャメチャだったりしたら、正直「形式知」も「暗黙知」もあったものではありません。
しかし、どうあれ、とにかく私の判断でどうするか最終決着をつけなければならないことになります。
こういったケースでは、大抵の場合、全くもって胸くその悪い決着になることが多いのです。
とはいえ、これはこれで組織のトップとして受け入れるしかありません。
そしてそれは、私にとってやや苦い「暗黙知」として記録され、記憶されることになるのです。
もちろんこんなネガティブなケースばかりではありません。
私のやや得意な分野、例えば文学や映画などの話題で、初めての仕事の相手とうまが合った場合、思いのほか話がスムーズに進むときもあります。
こういう時の話の展開は、私にとって予測不可能な楽しいものになります。
これもまた、私のうれしい「暗黙知」として記録されるのです。
一段高い「暗黙知」へ
「形式知」がますます重要視される時代、と先述しましたが、私はそういったスキルのレベルが上がってくればくるほど、「暗黙知」的な世界の充実度も図っていく必要があると感じています。
それは、冒頭で述べた「先輩の背中・・」とか「我が社の伝統文化・・」とかいった曖昧なものではなく、もっと実務に即した高度な世界での話になります。
とりわけ重要なのは、アイディアとか企画力とか先見性といったものです。
こういったものは「形式知」の世界からは生まれてきません。
特にキャリアにも関係ありません。
そういった企画力とか先見性を持とうとする姿勢を、若いときからを含めて、ずっと維持し続けられるか否かにかかっているのです。
そういう姿勢を持ち続けた人間とそうでなかった人間とでは、仕事を覚えるスピードも到達する高みもまるで違ったものになると思います。
また、そのような姿勢が職場全体にあれば、キャリアの長い先輩の持つ「暗黙知」が生きてくる可能性もあるだろうと思います。
ただ、その先輩社員の持つ「暗黙知」がロクなレベルでなくて、「形式知」にも疎ければ、「働かないおじさん」のように揶揄されても仕方がありません。
しかし、少し視点を変えるなりしてみれば、彼らにもそれなりに重要度の高い「暗黙知」がないことはないだろうと思います。
「リベラルアーツ」という大きなテーマ
少なくとも、私が培ってきた「暗黙知」については、できるだけ社員たちに、とりわけ若手の社員には、理解してもらえるよう伝え続けています。
そういう意味では、私の職場では若手と結構うまいこと補完しあっているのではないか、と思っていますが、まあこれが、私の方の一方的な思い込みでなければいいのですが・・
私が重要視し、目指している世界は、近年、巷(ちまた)でよく言われているところのリベラルアーツ(教養諸学、一般教養)といったジャンルになるのかも知れません。
これは、私及び私の職場のこれからの大きな研究課題でもあります。
「暗黙知」的な世界に過度に軸足を置いたおじさんのビジネス社会は、次第に駆逐されつつあるでしょう。
かといって、ビジネスは「形式知」的な世界だけで完結できるものでもありません。
両者の融合が大事とは思っていますが、もう少し「暗黙知」の方のスタンスを修正し、さらにレベルアップを図る必要性があるのではないか、というのが私の近頃考えるところであります。
コンピュータが威力を発揮する時代ではありますが・・・