2つの結婚披露宴―悪いことしちゃったなあ・・・遠い昔のほろ苦き思ひで―Ⅰ
はたして運が良かったのか悪かったのか?!?
「運」というものについて改めて考えてみました。自分は運が良かった方なのか、悪かった方なのか・・・他人から見れば、かなり良かった方に入るのかも知れないなあとは思います。まあ、日本という平和で経済的にも豊かな国に生まれてここまで無事に生きてきた、というだけでもかなりラッキーだったかも、と今は実感している次第です。
さて、今年、70歳になりましたが、幸いにして健康状態は良好で、仕事や収入にはまあまあ恵まれている方だと思います。しかし私は、そんな風に思えるようになるまで、かなり長い間『自分は運をつかみ損ねた人間だ。もっとああすればよかったのに・・・こうすればよかったはずだ・・・』と考えてきました。
私自身が運に恵まれていたかどうかの考察は、また別の機会に振り返ってみるとして、今回は「運」そのものについて考えてみたいと思います。というのは、「運」に関して、「あ、そうか!」と思い当たることがあったからです。
人が掴めるはずの「運」の量は?
それは、「そもそも「運」というのは、それほど個人差なく与えられているものではないか。」と思い当たったからです。「与えられている」というよりは、ほとんどの人間に、ほぼ同量「巡ってくるもの」と言った方が的を射ているかも知れません。
とにかく「一人一人の人間が生きていく上で、掴めるはずの「運」の量にそれほどの違いはない。ただ、その「運」との「出会い」を、その都度、的確にものにできたか否かで差ができてくるのではないか。」と考えたのです。
以前「幸運の女神は、前方には髪の毛が生えているが、実は後ろはつるつるに禿げている。だから通り過ぎてからそれを掴もうとしてももう遅い。2度と掴むことはできないのだ。」ということわざを聞いたことがあります。それくらい、「運」をつかむにはタイミングというものが重要な要素なのです。
「運」と「わらしべ長者」
また、「わらしべ長者」という童話も思い出した。あれは、最初手にしていたほんのつまらないもの(確か「藁(わら)」だったと思います。だから「わらしべ長者」ということになるのですが・・)から始まって、それを次々とより価値の高いものと交換していくことによって最後には長者(金持ち)になるという話です。まあ、ただあら筋だけ追いかければそれだけの話になりますが、「運」を掴むという意味では結構示唆に富んでいます。
つまり、今手にしているものを、次の「なにか」と交換するという「決断」を絶妙の「タイミング」で実践していかなければああはなりません。これは童話なので、より価値の高いものへと都合よくステップアップしていきますが、現実世界ではそうはうまくいかないでしょう。
しかし、その現実世界でも、ちゃんと「運」を掴めばこうなることもあるよ、ということを示唆しているのだと思います。タイミング良く「運」を掴んでいける、というのは、生きていく上で必要かつ大事な資質なのではないでしょうか。
「運」と「勝負事」の関係は?
私は、昔、柔道をやっていたことがあります。柔道の試合では、対戦相手と組みあっているときに、どこかでときおり相手の力というか緊張感というか、そういう勝負に欠かせない大事な集中力のようなものがフッと緩むときがあります。そのタイミングを見逃さずに、こちらが技をかければうまくいく、つまり「勝てる」可能性が高くなるのです。
しかし、そんなチャンスは一つの試合で何回も訪れるものではありません。そのわずかなタイミングを逃さずに技を仕掛けたものが勝者になるのだと思います。「運」を掴むというのは、この勝負ごとにおいて「タイミングを逃さない」ということとよく似ています。
練習のときはそれほどでもないのに、試合になるとめっぽう強いという人がいるものです。そんな人はこの「勝負に強い」つまり「運を掴むタイミングが絶妙である」といったタイプなのかも知れないな、と思います。
出来上がった「幸運」と素材としての「運」
宝くじに当たるとか1億円拾うとか、といった「幸運」は、めったに訪れるものではないし、そんなことには一生出会わない人がほとんどでしょう。(まあ、この手の「幸運」は、後で結構大きな「不幸」に繋がる確率も高いようですから、ちょっと怖い気もしますが・・)
つまり、すでに完成された「幸運」には、誰しもそう簡単に出会えるものではありません。しかし、それがあとで「幸運」に昇華するかもしれない素材としての「運」に出会うチャンスは、たいていの人に平等に与えられているのではないか、と思うのです。
その素材としての良い「運」を、鋭い堪で掴めるか否かは、その人の心掛けというか普段の考え方や姿勢にかかっているのではないだろうか、と考えました。それは、普段からポジティブで前向きな姿勢、他者との良好な関係性、徳を積んでいるような生き方をしているのか、といったことによるのでしょう。
「運=努力」と勘違いしていた
私が、長い間勘違いしていたのは、「運=努力」と考えていた点であります。もちろん、なんにせよ一定の努力というものは必要ですが、努力の果てにのみ幸運が待っている、と短絡的に考えてはならない、ということです。
「努力」というのは、いわば自分に課す苦役のようなものです。またそれは、受験勉強のように、あくまでも、かなり内向きでパ-ソナルな範疇のものでもあります。
これに対して、「運」を掴めるか否かというのは、多分に他者との関係性において決定されるものではないかと思うのです。「努力」とはまた別の意味で、前向きで良好な人生を送っていることで、掴めるチャンスが大きくなるのではないでしょうか。
こんな風に考えると、なんだか人生が楽しくなってきます。これからも「幸運」の種はたびたび巡ってくるのではないか、と思えるからです。
それをどれだけ掴むことができて自分のものにできるかによって、あとの人生が変わってくるはずです。「心を常に柔軟にポジティブに保つことによってそのチャンスは多くなる。」と考えれば、まだまだこれからやれることはいくらでもありそうな気がします。
この景色のように運は拓くのか・・・