青春の彷徨、新宿ゴールデン街―無頼に生きる、がテーマだったあの頃―Ⅰ
私がまだ30代初め、東京で暮らしていた頃の話です。当時私は、友人と作ったちょっとゆるーい会社を運営していました。
その日も午後になって時間が空いたので、近くの喫茶店に行って、コーヒーかなんか飲んでいました。
すると、小さな赤ん坊を抱いた地味な身なりの女の人が店に入ってきました。
「あのう大丈夫でしょうか?」
と、店のマスターに申し訳なさそうな感じで尋ねています。
彼女は、なんだか疲れ切ったような様子でしたが、年齢はまだ30代くらいに見えました。
遠慮がちだったのは、聞き分けのなさそうな1歳にも満たない赤ん坊を抱えて、
「お店に迷惑じゃないでしょうか?」
と気を遣ってのことでした。
そんな風に気遣うような店ではなかったので、マスターも「どうぞ、どうぞ。」と席まで案内しました。
客である私たちにも「すいませんねー」と頭を下げながら席に着きました。
彼女は、注文を取りにきたマスターに
「あのー、コーヒーをください。」
とオーダーしました。
ちょうど、彼女が連れていた赤ん坊と同じくらいの子育て中だった私は
『ああ、普段の育児にすっかり疲れちゃって、コーヒーでも飲みながらちょっとゆっくりしたい、と思ったんだろうな。』
と察しました。
やがて淹れたてのコーヒーが運ばれてきました。
と、そのときでした。
抱いていた赤ん坊がいきなり手を出したのでしょう。
ガチャンとコーヒーカップがひっくり返ってしまったのです。
私も逐一彼女の方を見ていたわけではないので、その音に少しびっくりして、思わずその親子のいる席の方に振り返りました。
ほかの客も一斉に彼女の方を見ました。
幸いにして、カップが割れたりはしませんでしたが、コーヒーはすっかりこぼれてしまったようでした。
マスターがナプキンを持って飛んできました。
彼女は「すみません。すみません。」と謝っています。
マスターにだけではなく、そのとき店にいた私たちにも頭を下げていました。
マスターは
「いいんですよ、気にしなくて。淹れ直してきますよ。」
と気遣ったのですが、彼女は「すみません。すみません。」と私たちにも頭を下げながら、お勘定をして店を出ていったのです。
子育てに疲れ、ようやく決心して一杯のコーヒーでも飲みながら少しくつろごう、と思った彼女の試みは、見事に打ち砕かれてしまったのでした。
話としてこれだけのことです。
ほんの小さな出来事でしたが、私の胸にはなんだかほろ苦い思い出として今でも残っているのです。
ガチャンと音がしたとき、私もほかの客も、思わずその方向に目線を向けました。
もちろん、咎めるとかそんな気持ちではなく、音に驚いただけのことでした。
しかし、小さな子連れのため、喫茶店に入るのもはばかられるような気持だった彼女には、瞬間その視線は痛いほど刺さったのではないかと思います。
「すみません。すみません。」の言葉だけを残して、飲みたかったであろうコーヒーにも手を付けることなく、彼女は店をあとにしました。
あの瞬間、音のした方に、キッと視線を向けなければよかったのではないか、咎める気などもうとうないことをもっとちゃんと伝えられなかったものか、などと、ちょっと割り切れない気持ちが心に残ります。
あれから40年近くたちました。
今では孫たちを連れて飲食店に出入りしています。
もちろん店に入る前に、小さな子供たち同伴でも大丈夫かとの了解は取るようにしています。
子連れだと、大人だけの時と違い、いろんなハプニングが起こりやすいものです。
親たちは、そこを何とかやりくりしながら、会食や喫茶の時間を楽しんでいるのではないでしょうか。
あのときの母子とは違って、今私は、そんな時間をもう少し余力を持って楽しむことができています。
あのときあの母親は、育児に疲れ切った日常の中で、ささやかなくつろぎの空間と時間が欲しかったのでしょう。
そのかすかな望みも、ちょっとしたハプニングで打ち砕かれて、気の毒な結果になってしまいました。
あのときの一杯のコーヒー。
あの疲れ切ったようなお母さんに飲ませてあげたかったなあ・・・と、今でも少し胸が痛みます。