聞いてないヨー!―散々無茶振りをされてきてわかった自分の性格―Ⅳ(おしまい)
[頭が良い」というのは、一つの価値基準だけでは図れない]
さて、ここまで「頭の良し悪し」ついていろいろと書いてきましたが、この問題は、66歳となった今でも、私にとって心の中から消え去っていない一つの大きなテーマなのです。
頭が良い、即ち「賢い」というのはいったいどういうことなのでしょうか!?
そもそも日本の場合、頭が良いというのは、万遍なく何でもこなせるとか、そつがないとか、万事飲み込みがいいとかいったオールラウンダー的な対応力の高さを指すことが多かったのではないでしょうか。
これは、学生に置き換えれば、多くの受験科目をそつなくこなせる、平均的に高い点数が取れる、ということになります。
今でもこれが、「頭が良い」と言われる人間に対して、一般的によく使われる評価基準であることに間違いはありません。
つまり「欠点がない。」ということが、頭の良さの大きな評価基準の一つだった訳です。
もちろん、いわゆる「地頭(じあたま)」がよければ「記憶力」も「理解力」も「処理能力」も普通よりもレベルが高いことになりますから、そう評価されて当然です。
そしてこれは、その人の学生時代に、「勉強ができる」「成績がいい」という典型的な形で表に現れます。
ところが近年、脳科学の研究が進んで、受験の際に特に発揮される「もの覚えがいい」或いは「記憶力がいい」というのは、脳の働きのごく一部であるとされるようになってきました。
つまり「頭が良い」というのは、一つの価値基準だけでは、そう単純には推し量れるものではないんだぞ、ということがかなり周知されてきたようなのです。
ものを教えるのは難しい
つづく