私の仕事史「マイ チャレジング デイズ」―バブルを横目に、かくもエキサイティングな日々―Ⅰ
「人々の幸福のために何かをなし得る人は、結果的に自らも幸福を手に入れる。」
或るTV番組で作家の村上龍が編集後記として述べていた言葉です。
数年前、100歳で亡くなった祖母のことを思うと、こういった言葉がそのまま生前の姿にダブってきます。
祖母は私にとって小さい頃からとても可愛がってくれた普通の「おばあちゃん」でした。
しかしながら、一方で祖母は若い頃から老舗のお菓子屋を切り盛りし、二人の息子を後継者として育て上げ、店を会社として大きく発展させた経営者でもあったのえす。
田舎町の経営者としては成功した人だと思います。
とはいえ、私にとって祖母は祖母でしかありませんでした。
「祖母が普通の人ではないな。」と認識し始めたのは、介護施設を頻繁に訪問するようになった頃からのことになります。
徐々に徐々にではあるが、人間として経営者として祖母の偉大さが身に沁みて理解できるようになったのです。
細かいことは分かりませんが、祖母はまだ若い頃、女手一つで老舗のお菓子屋を引き継ぐことになったらしいのです。
昭和の初めの頃、戦前の話になります。
当初、地域にあったほかのお菓子屋さんみんなに意地悪をされた、と祖母は語っていました。
「女手一つで何ができるもんか。無理だ、やめろ、やめろ!」
と言われたらしいのです。
そして当時統制品で、お菓子組合で割り当て配分していたお菓子の一番大事な原料である「砂糖」がまわしてもらえませんでした。
祖母はほとほと困ったようです。
ところが、そこで祖母はめげてめそめそするような人ではありませんでした。
それどころか、反転攻勢に出たのです。
何をやったかと言うと、鹿児島県庁へ単身直談判に乗り込んだのです。
「どうして私には砂糖をまわしてもらえないのか!」
つづく