ドキュメンタリー映画「徘徊」:認知症の母と娘の日々を描いた作品
大変興味をもちながらも、いろいろ忙しくて時間が合わずに見に行けなかった映画「怪物はささやく」。ようやっと先日見に行くことができました。見終わった感想は「あぁ、もっと早く見ておけばよかった!」と言うぐらい胸に迫る映画でした。
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母親の死を目の前にして、しかし本当のことを知らされない、あるいか感じていても口に出すことは決してできない少年コナー。実際コナーにとって母親の死という現実はとてもそのまま受け入れられるものではありませんでした。しかし受け入れられないからと言って現実は変わりません。こういう時、人はどうやって現実と関わることが出来るでしょう?
この問題はコナーに限らず、私たち自身の人生において誰も目を背けることができない問題です。家族や身近な人との別れは誰も逃れることはできません。いやもっと言えば人間である以上、私たち自身この世界から必ずお別れをしなければいけないのです。この世に生まれてきたことと同様、この世から姿を消さざるを得ないことは必定です。
しかし、「なぜこの私が、この世に生まれてこれたのか?」という問いと同様、「なぜこの私が、死ななければいけないのか?」「なぜあなたが死ななければいけないのか?」と言う問いかけも明確に答えられる人はいないでしょう。
なぜなら「人はどうやってこの世に生まれてくるのか?」と言う問いや「死ぬとはどういうことか?」という科学的で一般的な問いかけではなく、寄りにも拠って「なぜこの私が」「なぜあなたが」、そして寄りにも拠って「なぜ今?」「なぜここで?」という一回性で個別性の問いかけは科学が答えられる問題ではないからです。
それにこたえられるのが「物語」なのです。「物語」は科学的な思考のように客観的な説明を必要としません。それを読んだ人がそれぞれ自分なりの解釈と意味と奥行を産み出すことができる生命の源のようなものです。昔から人間は客観的に説明できない問題を神話やおとぎ話のような間接的な物語を通じて描写してきました。たとえば昨夕西の海に沈んだ太陽が再び東の海から昇るのを見て、太陽が夜の海の航海を遂げ、死と再生を果たしたのだ、世界というものはそうやって日々新しく生まれ変わるものなんだ、というように。
こういう物語を通じて私たち人間は、自分の力や理解の限界を超えた現象を受け入れてきたのです。この映画でもコナー少年は母親の死という現実や学校におけるいじめや理不尽な現実に対して、自分なりの物語を作り出すことで「逃れることができない現実と向き合うための物語」を産み出し、乗り越えていきました。
ネタバレになってもいけませんからこれ以上は実際に映画を見ることをお勧めします。でもいつまで公開しているかな??
あぁ、もっと早く見ておけばよかった (-_-;)