マナーうんちく話453≪冬来りなば春遠からじ≫
令和5年8月8日は二十四節気の一つ「立秋」です。
8月8日から、8月23日の「処暑」の前日の8月22日までが立秋ということです。
ちなみに春風は東風がつれてきますが、秋は西風が運んできます。
そして秋の色は「白」です。
「白秋」ですね。
いよいよ暦の上では秋ですが、本当に秋が来るのか心配になるくらいの厳しい暑さがつづいています。
しかし季節は只今一生懸命に秋になろうとしています。
晩秋の風物詩の「せみ時雨」が聞こえてくるようになりました。
以前ほど威勢はよくありませんが、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミの鳴き声は昔と変わりません。
蝉は地中での暮らしが6年から7年と長く、地上に出てきたら非常に短命です。
その短い一生を精一杯鳴いて子孫を残し、生涯を閉じます。
蛍もそうです。
昔から蛍も蝉も寿命が短いことはよく知られていますが「蛍二十日に蝉三日」という言葉があります。
物事の盛りが短い意味で使用されますが、昔の人は蝉や蛍から儚さだけを感じていたのでしょうか。
ややネガティブな気もします。
そして立秋を過ぎると次第に芒(すすき)が白くなってきます。
芒は別名「尾花」と呼ばれますが、江戸時代の俳人の句で「幽霊の正体見たり枯れ尾花」があります。
恐怖心があったり、あるいは疑心暗鬼になると、芒の穂が揺れているのが幽霊に見えるのでしょう。
いくつ年を重ねても気持ちだけは凛としておきたいものです。
ところで我が家の畑の南瓜が、今年は太陽の恵みをいっぱい受けて豊作になりました。
トウモロコシは小動物にやられてしまい全滅しました。
恐らくハクビシンか狸だと思うのですが、こればかりはお手上げです。
その代わりに南瓜が猛暑のエネルギーを受けたお陰でしょうか、甘さも濃く上々の出来になりました。
ちなみに南瓜は元禄時代に庶民に普及したといわれますが、甘みが強いせいか、特に女性に人気があったようです。
「女房を質に入れても食べたい初鰹」という江戸時代の川柳がありますが、江戸の男性は見栄っ張りで、初物の鰹を誰より早く食べたかったのでしょう。
でも高価な初鰹を買う金はありません。
そこで庶民が手っ取り早く金策ができる質屋を利用したのでしょうが、女房を質草にするとはとんでもないことで、今では考えられませんね。
一方当時の女性は甘い薩摩芋や南瓜に目がなかったのでしょうか。
江戸の女性は南瓜を食すために、とっておきの着物を質に入れたとか・・・。
ビアガーデンが繁盛していますが、身体を冷やす効果がある飲み物や食べ物や薬などで、身体に蓄積した熱を取ることを「暑気払い」といいます。
つまり暑さを払いのけて取り除くことですが、暑気には「夏の暑さ」と「夏の暑さが原因の病気」の意味があります。
一方「納涼」とは、一時の暑さを忘れる行為を楽しむことで「納涼土用夜市」「納涼船」「納涼花火」などがあります。
私の幼い頃には「度胸試し」などがありました。
現在では暑気払いの飲み物や食べ物といえば、まずビール、清涼飲料水、かき氷、スイカ、鰻、冷やしソーメン、さらに茄やトマトやキュウリなどの夏野菜でしょうか。
江戸時代には、大阪では「飴湯屋台」が出ていたようですが、江戸の町では「甘酒」「枇杷湯」や「麦湯」が楽しまれていたようです。
江戸時代の人は夏の食あたりにとても神経を使っていたようで、極力麦湯や甘酒なども熱いものをいただくか、いったん熱くして冷まして飲んでいたとか・・・。
当時の暑気払いの一つに、暑い夜に、暑い麦湯や甘酒を飲み、しっかり汗をかいて、その体で橋の上に行き、夜風に当たって体を冷やす風流な方法が存在したといわれています。
だから暑い夏は、夜に外出することが結構多かったようですが、これを目当てに夜になると麦湯売りの露店が出たわけです。
江戸時代は二毛作が多く、同じ一つの畑で麦と米を育てます。
夏前に麦を収穫しますが、七夕や盆に素麺をお供えするのは、収穫への感謝の表れです。
今でもお中元に素麺を贈りますが、その名残ということですね。
麦から作るのは素麺だけではありません。
「麦湯(今の麦茶)」をつくります。
麦湯も甘酒とともに栄養豊富で、手ごろな飲み物として人気になりますが、麦湯と書かれた行燈の下では、浴衣姿の若い女性が接客するようになり、現在のサービス業の基礎が築かれます。
日本のユニークな文化の開花でしょう。
冬は寒さに震え、夏は暑さで汗をかく、きちんと季節に向き合い、同化することで、日本人は豊かな感性を身に着けたのではないかと思います。
ただ今年の暑さは以上ですね。
異常が日常にならないようみんなで温暖化対策を心がけたいものです。