マナーうんちく話239≪バラ色の人生とマナー≫
年代による違いは大いにあると思いますが、中高年齢者にとって年末といえば忠臣蔵だったと思います。
1702年12月14日に起こった、最も知られた歴史上の大事件の一つであり、もっとも有名な仇討ちである「赤穂浪士の討ち入り」です。
四十七人の赤穂浪士が吉良邸に押し入り、吉良上野介を殺害して、主君の仇をとった「忠臣蔵」という名前で語り継がれています。
ところで討ち入り事件の顛末はさておき、浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかった理由は、ほかならぬ礼儀作法にあったようです。
武家社会は主従関係が明確で、主に対して家来はどのような態度で振舞うのかが事細かく定められていたわけです。
さらに礼儀作法を身に着けることで武士としての箔付けができたのでしょう。今流に言えば、マナーを身に付ければ教養人の仲間入りができ、格好よくなるということです。
徳川幕府は京から天皇の使者を迎えることになっていたのですが、これは想像以上に堅苦しいことで、複雑多様な礼式が求められます。
そしてその接待役には1万石から10万石クラスの大名が任じられますが、そのときは赤穂藩主浅野内匠頭だったわけです。
接待が旨くいけば大変名誉なことですが、ただ現在の「お・も・て・な・し」といわれるような、ホッとする温かみのあるものではなかったはずです。
武家が公家を饗応するわけですから「武家礼法」とともに「公家礼法」も要求されるでしょう。
恐らく当時のことですから、徹底的に形式にのっとった作法があり、先例主義が幅を利かしていたのではないかと考えられます。
大名とて、これら全てに精通しているわけではありません。
いかに位の高い公家(勅使)を心地よくさせるか?
難題です。
そこで「高家」といわれる礼儀作法の専門家に教えを乞うことになるわけです。
浅野内匠頭が高家筆頭の吉良上野介に、勅使の饗応に関する作法の手ほどきを受けるということですね。
しかし教え方が良くなかったのでしょうか?
原因は授業料が少なかったとか、赤穂藩の塩の製法を教えなかったから、などなど、いろいろな説がありますが、結果は勅使の面前で礼法の無作法が生じ、武士としての面目が失われることになったようです。
そこで「この恨み張らしてくれようぞ・・・」ということで、江戸城内の松の廊下で背中や頭に切りかかってけがを負わせ、その責任を取らされ、切腹となったわけです。
障壁画として松が描かれ、徳川幕府の権威を示し、重要な儀式などが執り行われる場での刀傷事件ですので、非常に厳しいさばきが下されたのでしょう。
テレビや映画で何回も見られたシーンです。
しかし一方は切腹、一方はおかまいなし。
喧嘩両成敗の原則から言えば理不尽な裁きですね。
そこで主君の仇を!ということになるわけです。
ただし主君の敵を討ってもただではすみません。
命を懸けて主君の恨みを晴らした赤穂浪士の働きに、共感を覚える人が多かったのは大いに頷けます。
捉え方は人それぞれでしょうが、この一連の事件が江戸市民の心をぐっとつかみ、江戸の文化にも大きな影響を与えることになったことは理解できるきがします。
だから大河ドラマをはじめ、映画、小説、落語、浪曲、講談などで何年も大々的に語り続けてこられたのでしょう。
森友問題を始め東京オリンピック・パラリンピック、統一教会などの問題がいまだにくすぶっていますが、政治家や官僚の中から令和の四十七士のような人は出ないのでしょうか?
大石蔵之介のようなリーダーはいないのでしょうか?
かたき討ちは江戸時代の制度であり、主に武士の制度ですから令和の今、そっくりそのまま令和の忠臣蔵というわけにはいきませんが、せめて忖度をなくすような改革はしていただきたいものですね。
そして報道に携わる人には凛としていただきたいと思っています。
御用コメンテーターの話にはいつもうんざりします。
真のジャーナリストの声を聞きたいものです。
個人や弱者の罪や過失は、これでもかと誇らしげに報道するのに、権力側の不祥事には「触らぬ神に祟りなし」ではよくないでしょう。
私のような者が心配してもどうにもならないでしょうが、世界から「礼節の国」と尊敬され、称賛された日本はどうなるのでしょう。
今の日本から温かみが感じられる「お・も・て・な・し」が年々失せていく気がしてなりません。