マナーうんちく話1863《変化してきた家族関係、どうする?「高齢期を【幸齢期】にするために⑨」》
【死の判定はややこしかった】
古今東西人が死ぬとほとんどの場合「通夜」をします。
斎場や葬儀会館で行う場合もあれば、自宅で執り行うこともあるでしょう。
では通夜は何のために行うのか?
この捉え方は古今東西必ずしも明確ではなく、地域や宗教や個々人の考え方により異なるでしょう・・・。
ちなみに通夜は葬儀の前に執り行い、厳粛な儀式のようにも思う人も多いと思います。
医学の進歩していない時代は、死の判定は難しいから、それをきちんと確認するためのプロセスであったようです。
現在では呼吸が停止した、心臓が動かなくなった、瞳孔が開いたなどで判定しているようですが、昔はそれさえあいまいです。
だから大勢の人がそれを確認しなくてはということで、通夜の席を設け、そこに大勢が集まって見届けたようです。
【死体は恐ろしいもの】
また昔の人にとって、死体は恐ろしいという概念がありました。
今もおなじでしょう。
死体に悪いことをされた例は全く存在しないわけですが、死体は恐いと思う人がほとんどです。なぜでしょう?
人の死は避けて通れないので、目の前の死体と自分の死が見え隠れするのかもしれませんね。
幽霊を怖いと思う心も科学が進歩した今でも変わりません。
人が亡くなるとその魂はまだ非常に不安定で恐ろしく、その扱いに大変な神経を注ぐという「霊魂感」が原因かもしれませんね。
「忌中」の概念もそうでしょう。
身内が亡くなると霊魂に取りつかれるため、ある期間は隔離され、行動を慎む期間として「延喜式」に規定されており、それが1000年以上日本人の心に生き続けているわけです。
この時期には「喪中葉書」が届きますが、これもそのような考えがあるからでしょう。
ところで現在は日進月歩で科学が進歩しています。
さらに倫理、哲学、法律などの学問も整備されています。
【人生を全うすることが自然に対する摂理】
しかし、生に対しても死に対しても未知の部分は多々あります。
自然には逆らえないということでしょう。
延命措置、延命治療、尊厳死、安楽死などの議論が伯仲していますが、命をおカネと比較することはおかしいと思います。
命は地球より重いといわれますが、折角与えられた命なのですから、しかも世界屈指の長寿国に生まれたのだから、生きられるだけ生きて、人生を全うすることが自然への摂理だと考えます。
その意味も込めて、人が人を殺す「殺人」と、自ら命を絶つ「自殺」ほど、死に対して不作法なことはないと思うのですが・・・。
10人10色といわれるように、人は皆生き方も逝き方も異なります。
いずれにせよ、死の間際まではいかされていることに感謝し、命を大切にしたいものです。
そして生きている間は美しく咲き、やがてしおれるように安らかに息を引き取ることが死に対してのお作法だと思います。