マナーうんちく話516≪袖触れ合うも多生の縁≫
マナーうんちく話74《愛想と愛嬌》
5月6日は二十四節季の一つ「立夏」で新緑が美しくなり、夏の気配が現れる頃です。
今年は「クールビズ」が早くスタートするようですね。
ただクールビズは、温室効果ガス削減のため、冷房時の室温を28℃に設定し、薄着になりましょうということで、「ラフな格好」がすべて認められるというものではありません。
商談、プレゼン、お見合いなど、ここぞという時にはキチンと上着着用をお勧めします。
昔の奴隷と王様の服装からも、その心理的効果がうかがえますね。
いずれにせよ、横文字や格好にとらわれずに、明るく元気に参りたいものです。
ところで、皆さんは「愛想」や「愛嬌」についてどのような感想をお持ちでしょうか?
最近、マナーも「形に捉われているものが多い」ような気がしてなりません。中でも若い女性の立ち姿、手の組み方、お辞儀等などです。
これらは、「見かけを素敵に見せる戦略」なのでしょうか?
アナログ人間の私にはどうも好感が持てません。
不必要に、見た目ばかりが表面に出過ぎ、心の中から醸し出された礼とは受け取れません。
1960年に行われたアメリカの大統領選挙で、選挙に多彩な戦略が駆使されるようになり、その一つに「イメージ戦略」なるものがありました。イメージコンサルタントという人が、候補者がテレビ演説をする際にはネクタイの色なども、好感の持たれるようアドバイスしたそうですが、今ではすっかり当たり前のことになっていますね。
勿論否定するものではありませんが、何事につけ本質を失わないでいただきたいものです。
その観点から言えば、礼儀にはそれなりの誠実さが必要で、それがなければ単なる表面だけの演技になってしまいます。
最近やたらとお詫び会見がありますが、その際のお辞儀の仕方ですが、誠意が汲みとれるものが少ない気がします。
今回はいきなり余談事からスタートしましたが、テーマは「愛想」と「愛嬌」です。
例えばどんなに美しく着飾っても、カッコよく手を組んでも、そこに心がなければ形式化された立ち居振る舞いになってしまう、といいましたが、逆のことも言えます。
例え少々不細工な振る舞いでも、そこに愛想や愛嬌が加味されれば、かえってそちらの方が好感を持たれるケースも多々あります。そして、「愛想」と「愛嬌」はよく似ているような気がしますが、その意味はかなり異なります。
●「愛想」は、「あの人は愛想が良い」、とか「愛想笑い」等と言われるように、相手に良い感じを与えるための行為や行動です。
●「愛嬌」は、あるものに元々備わっている、「かわいらしさ」や「なんとなく憎めない雰囲気」のことです。
「愛想は外面的要素」で、「愛嬌は内面的要素」だといえると思います。
マナーを発揮する際に、愛想と愛嬌が備わっていれば、まさに「鬼に金棒」ですね。
最近テレビなど見ていても、愛想や愛嬌を感じられる人が少ないように思えます。
皆さんは如何でしょうか?
今年も「就活」「婚活」「自分磨き」等に励んでいられる方も多いと思います。
「愛想」は「元々備わっているものだから今さら!」と思えても、「愛嬌」は「自分自身の認識の仕方や努力でこれから何とでもなるもの」です。
婚活、就活、自分磨き、良好な人間関係等などにおいて、改めて「愛嬌の大切さ」を思い浮かべて見られては如何でしょうか?
人生が大きく好転してくると思います。
少し余談事ですが、「愛嬌」の本来の意味は、仏様の、「穏やかで誰もがほほ笑むような相」を表した言葉だそうです。
また、スナックなどに行った時に、ママさんに「お愛想して下さい」と言いますが、これは、「客が店の主人に対して言う言葉」ではなく、「店の主人がお客に使う言葉」です。
正式には、「お愛想尽かしですか?」と言う意味です。
「愛想を尽かす」とは「縁を切る」という意味でよく用いますが、ここでは「縁を切る=お帰りですか?」の意味ですね。
私はこのコラムで何時も、「マナーは形より心」と申しますが、つまるところ「心」が成熟してくると、おのずと人間性が養われ、愛嬌が出てくるのだと思います。
そして、心が成熟するには、それなりの苦労を経験したり、感謝したり、教養を身につけたりする必要があるので、それなりの年数がかかると思います。